Aho Mitakue Oyashin !! Ho oponopono !! Native Yamato -kairindian's blog!!- このブログは成田浬(カイリ)本人が書いています。勝手ながら記事へのコメントは承認制にしております。


by kairindian "indian_joe714"

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kairindian's・・・

2011、3、11・・・
東日本大震災により被災されました皆様に心よりお見舞い申し上げます。

また、この震災で失われてしまいました多くの方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。



この未曾有の大震災、並びに終息の見えない福島第一原発事故による多大な被災は、現在の日本・人類・世界への、地球や太陽系からの強烈なメッセージと受け止めております。


先ず、第一に放射性物質拡散に依る二次被害の収束、そして一日も早い東北・東日本の復興を願い、そして地球や太陽系の望む、未来の日本・人類・世界の「真の幸福」のために、役者・ナレーター・講師として、何より人として、微力ながら出来る事をして参る所存です。


2011、5、31
kairindian


『人の都合より自然の摂理を尊重し、地球を母、動物・植物を兄姉と敬い、大いなる神秘との出会いの為に。』


大いなる必然の神秘と出会う旅。。。


みんなが幸福になること。

大切なのは、みんなが幸福になること!

ーkairindianー

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今宵、俺は幸せだ。

月が・・・やけに綺麗だから・・・

今宵、俺は幸せだ。



人に・・・恵まれているから・・・

今宵、俺は幸せだ。



美味しいモノを食べたから・・・

今宵、俺は幸せだ。



気分がいいから・・・

今宵、俺は幸せだ。



俺が、俺の人生を、歩んでいるから・・・

今宵、俺は幸せだ。




今宵、俺は幸せだ。




明日・・・何が起こるのか・・・?



そんなのしらん!



ただ・・・




今宵、俺は幸せだ。




それでいい。。。



kairindian
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by indian_joe714 | 2011-05-19 02:46 | 日記 | Trackback | Comments(2)

ご報告

私は・・・

2011年5月15日深夜の気仙沼復興支援活動報告メールの提出をもちまして、

NPO法人CARE-WAVEのスタッフを辞する旨、

理事長以下、関係者の皆様にメーリングリストにより提出いたしました。


2007年、第一回CARE-WAVE AIDへのジャーナリスト役での出演から4年間、

短い間ではありましたが大変お世話になり、貴重な経験をさせていただきました。

素敵な仲間達とも出会わせていただきました。

関係者・賛同者・協力者の皆様に深く感謝しております。




2011年3月11日

東日本大震災が起きてしまいました。

未曾有の大激甚です。

CARE-WAVE AIDに毎回出演している気仙沼「うを座」の子供達。

気仙沼の地は・・・大火災に包まれていました。

CARE-WAVEスタッフであり、誰よりもお世話になっている
気仙沼の志田さんの病院には、ご主人始め、大勢が取り残されていました。

あの夜の、あの映像を繰り返し繰り返しTV画面で見ながら・・・

twitterで、繰り返し繰り返し救助を求めるメッセージをツイートしました。

東京で一人暮らしをしている志田さんの息子さんからも、

その都度、リツイートが入りました。


3日後・・・

志田さんの病院から、多くの方が自衛隊のヘリで救助される様子がTVに映り、

『本当に・・・よかった。。。』

そして、

『自分にも何か出来るんだ。』

と感じた瞬間でした。



その後、CARE-WAVE理事長との電話で言いました。


『行った事も無い、どこかの国で起きている飢餓・貧困・戦争を歌って踊って訴えるのもいいけど、
今、この日本で、人類史上最悪の事態が起きてしまっている。
この現実を無視して、ボランティアミュージカルなんて有り得ない。
しかも、これまでの公演には気仙沼のうを座の子供達も毎回参加してくれている。
ボランティアするNPOなら、気仙沼に行き、出来る事しましょう。』

理事長は『私もそう思っている。全く同感。』

そこからの始まりでした。


志田さんのご家族は幸いにも奇跡的に、皆さんご無事でした。

しかし、自宅・病院・おばあさまのお宅は津波被害で全損になってしまいました。



その後、気仙沼復興支援活動として3度気仙沼に入りましたが、

その詳細はこのブログ(復興支援カテゴリ)をご覧下さい。



この過程で・・・

自身の『ボランティア・スピリット』をCARE-WAVEとして継続して行く事に

疑念と懐疑が生じ、具体となり、結果、冒頭のご報告の決意に至りました。


最後まで継続が叶いませんでした事には一抹の淋しさを感じております。

支えて下さった方々には、ご迷惑ばかりをおかけし申し訳ありませんでした。


今後は『役者・成田浬』として、『人間・成田浬』として、

内在しているボランティア・スピリットを大事に育てながら、

日々、充実を求めて活きて行こうと思っております。


原発等、未来の見えない現状ではありますが、

希望を胸に、宇宙の真理を体感し、人類の成長に、尽力する所存です。


重ね重ね、皆様には感謝しております。



本当にありがとうございました。




kairindian
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by indian_joe714 | 2011-05-16 12:44 | CARE-WAVE AID | Trackback | Comments(0)

三たび・・・【気仙沼復興支援】を終えてー5月4・5・6日ー


ブログ更新に時間が空いてしまい申し訳ありませんでした。

やっと報告ブログを書けましたので、アップいたしました!



5月4日(水)

午前6時半に起床すると、台所では松原さんが全員の朝食の準備をしていた。

水をイッキに一杯飲み干し、台所へ・・・お手伝い。
久々に包丁を握り、納豆をとき・・・

やっぱり、ご飯と納豆とみそ汁は・・・最高だ。



午前9時

準備をし、それぞれの持ち場へ向けて出発。

僕は『亀山肉店』さんの店舗兼住居のヘドロ掻き出し作業だった。
昨日のフェリー乗り場が眼前に見える港から、一本裏通りに入った道沿いに建っている。

一本裏通り・・・

津波にとっては一本裏も何も無い、どこもかしこも海水の通過点になっていた。


昨日、我々とは別の方々が、肉店特有の大きな機器を運び出してくれており、
残るは床に溜まったヘドロ・・・の状態だった。

僕と女子2人。
スコップとネコで作業を始める。

2人の女子は淡々と作業をするが、彼女等のキビキビした動きは早い。
そして、その若さのキビキビした姿勢は、見ている人を元気にする。

「若い」っていいなぁ・・・と思った。


この辺りはまだ水道が復旧していない。
道を隔て、山側へ徒歩50m程離れた場所のお宅が、辛うじて水が出る。

バケツで水を汲み、運び・・・

ヘドロを除去した床に水を流し、その汚泥をまた掻き出す。
単純な作業だが、それが苦労する。

その上、ここでは排水溝がヘドロで詰まっていて水が流れないので、
排水溝のヘドロ除去をしながらになる。

床の汚泥除去にはスコップよりも適した道具があるはずだった。
先がゴムになっていて、一気にかき寄せる事の出来る・・・あれ!(名前が解らない)

東京ではあると便利な作業道具もすぐ手に入るが、ここではどうなのか?
近所のお宅で作業していた別班に、もしあったら貸してもらえるか聞いてみる。

工具等を扱う大きな作業店は営業しているらしく、理事長の判断で買い出しに行く事に。

運良く3本購入出来、そのお陰で作業が飛躍的に進んだ。


午前中のうちに、床面はほぼ綺麗になっていた。しかし・・・


朝からずっとだが、とても臭い。

奥の一番暗い所に大きな扉があり、3㎝程隙間があったが、
臭いの発生元は、どうもそこらしかった。


開けてみると、そこは巨大な冷凍庫だった。

入り口付近まで山積みにされた肉。

震災からほぼ2ヶ月、電気も止まり、腐敗が進んでいた。



午後には店主さんが顔を出してくれる様だったので、
店主さんの意向を伺ってから、腐敗肉の運び出しを検討する事になった。



途中、従業員さんがゴミ袋とジュースの差し入れに来てくれた。

(この厳しい状況にあって、まだ僕らを気使ってくれる。)

気仙沼の方々の他人を思いやる心に・・・何度出会った事だろう。。。


心の中で涙があふれた。

その従業員の方と、数分、立ち話をした。

『ここもですが、まだ、海が見える所に来るのが怖いです・・・』

この言葉を聞いた時、彼の目の奥に、津波が見えた。

(本当の怖さ、どんなにか怖かったのか・・・)

それを思うと、口を出る言葉に窮してしまった。。。



昼食は、松原さんの握ってくれたオニルギン(おにぎり)。
海を・・・景色を見ながら・・・一人で食べた。


(この穏やかな海が。。。このキレイな風景が。。。
あの日、ほんの数分の地球の揺れが・・・こんなにも大きな、
こんなにも全てのものを飲み込み、奪い、悲しみを生んでしまった。。。
地球って・・・何なんだ。。。)



ボーッとしながら、食べた。




午後。

亀山肉店さんのご夫妻が来て下さった。

腐敗肉の処分を・・・決断し、お願いされた。


『わかりました。処分させていただきます。』



ご夫妻とも数分間の立ち話をした。

「今日は何時くらいまでの作業になる予定ですか?」

「3時か3時半には終わろうと思っていますが」

「そうですか・・・本来でしたら父が御挨拶するのですが、今日は人工透析をしていまして・・・」

「そんな、気になさらないで下さい。どうぞ静養なさって下さい。僕らは出来る作業をしたら帰りますから。」

「感謝しておりますが感謝の言葉では足りません。このご恩は一生忘れません。感謝してもしきれません。」と・・・


奥様は手を合わせ、涙を浮かべながら・・・そうおっしゃり、
旦那様は時折うなずきながら、ただ、じっと僕の目を見ておられた。


そして・・・



「8歳の息子が・・・未だ行方不明なんです」




「っ・・・・・・・・・」



僕には・・・適切に返せる言葉も、、なく、、、

ただ、うなずき・・・懸命に受け止めようと・・・

そして、涙をこらえ、、、

「聞く」・・・ことに集中するだけだった。。。




(僕にできる事って・・・)






別班から人出を呼び、8人で腐敗肉の運び出し作業に入る。

冷凍庫の扉を開けると・・・

信じられない臭いの大群が一気に押し寄せて来た。


濡れた段ボールは形を崩し、
中の肉が床に落ちバラバラになる。
バラバラになった瞬間から新たな臭いが生まれる。


牛・豚・鳥・鹿・ホルモン・・・


手のひらの部分がゴムの手袋になっていたので、わし掴みで、
次の人が口を大きく開いて用意しているゴミ袋に、次々に入れて行く。


息ができない。


しかし、これは休憩等していられない。一気にやるしか無い。

誰もが暗黙の了解をしていたはずだ。


汗で・・・2重にしていたマスクの地肌側のマスクが、鼻と口に吸着する。

息ができない。

一瞬、マスクを浮かす。

口で吸う。

口からも臭いが来る。むせる。。。


暗くて・・・

一体どれほどの広さがあり、どこまで続くのか・・・


最初は最前線にいた僕も、限界を感じた。

誰に何と言われようが・・・無理は無理!


『こうたーい!』


入り口付近を運び出した時点から、理事長が最前線に入った。

二番手には、実家がお肉屋さんの女子。


残り4人は次々に出される肉を袋に積め、口を結ぶ。

後の2人はそのゴミ袋を外の集積場所に運んで行く。


床に落ちたホルモンからは血が流れる。


僕は、腹の中から返ってくるモノがあり・・・

何度か外へ飛び出し、呼吸を取り戻しては中に戻り・・・

作業を続けた。


理事長は覚醒していた。

何かに取り憑かれた様に、脇目もふらず肉に突っ込んで行った。




45分。




終わってみれば4畳半程の冷凍庫だったろうか。
それでも、床から天井までびっしりに積み上げられた肉達は、
ゴミ袋100袋位にはなっていたのではないだろうか。。。


結局、理事長が最後まで最前線に入り、二番手はお肉屋さんの女子がやり遂げた。


後で聞いて引いたが・・・

理事長は鼻で呼吸をしていた様だ。

「臭いに慣れた。」と言っていた。




とにもかくにも・・・

一番の難題だった腐敗肉の運び出しを終える事ができた。





店主さんご夫妻の深い悲しみの代わりにはなれるはずも無い。

それでも、この腐敗肉を運び出した事が、何かのお役に立つのだったら・・・

やって良かった。そう思う。




再び、汚れた床を洗い、体中に付着した肉汁を洗い、亀山肉店さんの作業を終えた。


別班に移動し、ヘドロでやられている家具や食器の洗浄作業をした。



しばしの休憩中・・・


気仙沼うを座の副座長、阿部さんは、先程の腐敗肉運び出しも
一緒になって参加して下さっている。
その阿部さんが、気仙沼の祭りで吹くと言う笛を吹いて下さった。

海を見ながら・・・
海に向かって・・・

あの日、荒れ狂った海・・・
今は穏やかな海・・・

僕より大先輩の阿部さんには、数えきれない思い出のあるこの気仙沼。

その阿部さんは・・・

何を思い、何を感じ、何を見ながら、笛を吹いているのだろう。。。

雄大で・・・
澄んでいて・・・

綺麗な音色の笛。

僕の視線は海を見て・・・
耳は笛の音に聞き入り・・・

深い何かを感じながら・・・

夢の様な数分間を感じさせて下さった。。。。




夕方5時。

全ての作業を終え、買い出しをし、宿泊場所へ戻った。

銭湯へ行き、身体の汚れと・・・臭いを洗い流し・・・

松原さんの夕食をいただき・・・



生きた心地がした。

帰ってきた・・・気がした。


多少大げさかもしれないが、それほどの言葉で伝えたくなる・・・一日だった。



夕食後、それぞれの班の作業報告。

皆、それぞれが報告した。皆、沢山話す。


(あぁ、これほど話したいんだ。それほどの事を、今日一日、感じて来たんだ。。。)



そんな風に感じながら皆の報告を聞き、


(東京での意見交換や会議の際に、人が話したがらない理由って何だろう?)


と思った。

本当に感じてないから話せないのかも。

本当に感じるべき事が、東京には無いのかも・・・とも思った。


コンクリートで固められ、経済メインの社会で話す事って・・・



動物的本能からすると・・・


全てが『虚無』なのかもしれない。


そう感じていた。






そんな夜は・・・飲むに限った。

久々に飲んだ!

はしゃいで、冗談言って、すぐに酔って・・・



やはり、皆より少し早く・・・


寝袋に潜り込んだ。。。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


5月5日(木)


起床6時半。

今日も松原さんは5時半に起きて朝食の準備をしてくれていた。

お手伝い。お手伝い。


ご飯とみそ汁と納豆。


本当に幸福である。幸福を実感する。


「ごちそうさまでした。」

「ありがとうございました。」



今日の僕の作業は『思い出探し』

唐桑町という場所で津波被害に遭われ、
全てが流されてしまった所での大切な思い出の品を探す作業。


この日は朝からヒンヤリしていた。。。


この日で一足先に帰られる亀井さんご夫婦と、別れの挨拶。
群馬から生鮮野菜を集め、運んで下さった夫妻である。

「また、きっと会おう!」

固く握手して別れた。



午前9時半。
50分程の距離にあると聞いていた唐桑町へは、11人が3台の車に乗り込み出発した。

40分程走っただろうか。

(そろそろ近く迄来てるんじゃないかな?)

と感じた頃に、事故は起きた。


先頭の先導車両は気付かずに行ってしまったのだが、

2台目の加藤事務所さんのバンが上り坂途中でいきなりのバースト。

3台目の僕は急停車し、車を降りた。


案の定、酷いバーストだった。


僕の車の工具を出してはみたものの、
皆、この様な経験は無い者の集団だった。
やれば何とかなったかもしれないが、万が一のため・・・

やはりここは一番頼りになる、松原さんに来ていただこうという事になり、
松原さんに電話した。

『わかりました。すぐに向かいます。』

『良かったぁ・・・』



その間に、僕の車で行ける人はピストンで行く事にした。


3人が残り、8人は現場へ向かった。


言うまでもなく・・・

ここへ来る迄の道程は、紛れも無い被災地の間を走って来た。

どこもかしこも・・・

まだまだ全くの手つかずの家々が溢れていた。



現場はさらに酷かった。

家の形がどこにも無い。


恐らくは田園、田畑があり、一軒一軒の家が適度な距離感で建っていたのだろう。

周囲は山に囲まれている。


リアス式海岸の奥地にあるこの唐桑町の海は・・・

アメリカの片田舎の湖畔を思い起こさせる様な、
それはのどかな、綺麗な風景だったに違いない。


現に、海と山だけを見る分には、充分すぎる程、綺麗で美しい。


しかし、一度その目線を陸にあげると・・・

見渡す限り・・・荒涼とした瓦礫の町になっていた。。。



ピストンで先に入った8人は現場迄徒歩で入り、
僕は事故現場に戻った。


松原さんが早々に到着し、バーストタイアを取り外し、
スペアタイアが取り付けられていた。


『本当にありがとうございます。』


一同、現場へ向かった。


松原さんも現場迄来て下さり、舗装されていない土砂の道路での
帰りの運転、タイヤの事を気にかけて下さった。


「それじゃ、僕は宿泊所の方付けに帰ります。」

そう言った松原さんの表情が、少し淋しそうだった。


(松原さんもきっと、被災現場で直接役に立つ作業がしたいのだろう。
それでも今回の自分の役割は、現場に行って作業する皆さんの「食」をちゃんと管理し、腹を満たす事。
自分の役割に集中し、自我を出さない様にして下さっている姿勢を感じ、感謝せずにはいられない。)

『本当にありがとうございました。』




やっと全員揃い・・・『思い出探し』が始まった。


『思い出探し』と言っても、まず目の前に表れるのは瓦礫である。


瓦礫・・・一言で言うには表現しきれない。


千切れて曲がっているトタン。
途中で折れている家の柱や窓枠等の木。
流木。
畑の土に植わったままのネギの集団。
壊れた家具。
椅子。
海のブイ。
海藻。
破れた衣服。
靴。
大小のガラスの破片。
カーテンレールやボロボロのカーテン。
土。
紙類。





そんな中から時折出て来る、

写真。
泥だらけの手紙。
本。
割れていたり、全くの無傷だったりする食器。
バインダー。
名前の書いてあるランドセル。
人形。
財布。
サッカーボール。
漁具の類。
子供服。






それにしても途方に暮れる。

ここだけでも、東京ドームより遥かに広い範囲に津波で運ばれてしまっている。

11人なんて・・・少なすぎる。。。

それも瓦礫の類をどかしながらの作業は遅々として進まない。


津波によって無作為に運ばれた大きな流木は行く手を遮る。

どかそうにも何でも絡まっていてびくともしない。



それでも時折『ふっ』と出てくる思い出と思しき品を目にすると、


(やった。みつかった。)


と、ココロにほんの少しの充足感が生まれる。

そして、また次を探す。

繰り返し繰り返し。



一人やご家族の方々だけよりはましなのだろうけど・・・

(もっと一気に、大勢で取り組めば、まだまだ多くの『思いで』が見つかるだろうな。)

と思ってしまう。



松原さんのオニルギン昼食をいただき・・・



午後も探す。



天気は曇り空。

5月とは思えない程肌寒い。



午後3時半。

ここでも満潮の時間になった。

見ると入り江から続く川の水かさが、もう地上スレスレまで上がって来ている。

場所によっては溢れ出て、沼地の様になっている所もある。



(これが現実なんだ。何も終わっていない。日々、浸水している。)



「そろそろ引き上げよう。」という事になり、

車を止めてある所まで移動し、


「たいしたお力にもなれませんでした。」

と言った僕に、依頼してくれたお母様は、それでも大変喜んで下さった。


「皆さんのお陰様で、沢山見つかりました。」



この区域には、そろそろ自衛隊が入るらしい。
重機も入る事になる。

そうすれば瓦礫の撤去は飛躍的に早く進むことだろう。

しかし、その瓦礫の下に埋もれている、小さな小さな『思いで』を見つけるのは・・・

やはり人間の手作業でしか進められない。


時間はかかるが、丁寧とは、そう言う事なのだと思う。



「時間の節約」って、何の為にあるのだろう。。。


そんな事・・・考えながら宿泊場所への帰路についた。




今日は最終日。

有志の8人は残ってGWいっぱい作業を続けるという。

残りの14名はこれで帰京。

帰京組は準備をし、それぞれ別れの挨拶をし、車両に分かれ・・・


出発。

気仙沼の地を後にした。






最終日は温泉で疲労を癒してから帰京する。

今回はその予定を組んでの活動だった。


もちろん遊びに来た訳では全く無いが・・・

活動した自身への労いは必要と思う。



一関インター近く、桃の湯。

大きな施設で、バイキングの夕食もあり、久々にゆったり出来た。


疲れを癒す事ができる幸福。

気仙沼だけでは無い。

可能なだけ早く、被災された方々が癒される時が来ます様に。。。


気持ちを新たに・・・


東京に向けて出発した。



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5月6日(金)



途中、長者原SAで3時間程の仮眠。


東京へは朝の7時。


無事に到着した。

他の皆も三々五々、無事に到着した様だった。


何はともあれ・・・

無事に今回の支援活動を終えられた事に、感謝致します。


ありがとうございました。



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5月9日(月)


残り組8名。無事帰京。



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ー3度の気仙沼復興支援活動を経てー



311以降・・・

3度の気仙沼支援活動を行わせていただきました。



311・・・

全てはこの日、あの揺れから始った。

徒歩・ヒッチハイクで、やっとの思いで帰宅。

自宅でTVをつけ、燃えている気仙沼が映っていた。


『えっ!!!まさか・・・・・・・・・・』


信じられなかった。


twitterで気仙沼の知人の救助を求め、
3日後に、その知人の病院から、多くの方が自衛隊のヘリで救助される模様を見た。

自分にも何か出来るんだ。と感じた瞬間だった。


NPO法人CARE-WAVEに籍を置く僕は、理事長との電話で言った。


『行った事も無い、どこかの国で起きている飢餓・貧困・戦争を歌って踊って訴えるのもいいけど、
今、この日本で、人類史上最悪の事態が起きてしまっている。
この現実を無視して、ボランティアミュージカルなんて有り得ない。
しかも、これまでの公演には気仙沼のうを座の子供達も毎回参加してくれている。
ボランティアするNPOなら、気仙沼に行き、出来る事しましょう。』


理事長は『私もそう思っている。全く同感。』

そこからの始まりだった。


この2ヶ月・・・


明けても暮れても、気仙沼の事と、支援活動の事ばかり考えていた。
考えていただけではない。その準備、心構え、活動内容・・・

情報を調べ、集め、共有してきた。



僕たちは自衛隊では無い。こういったボランティア活動に慣れている訳でもない。
わからない事だらけ。
しかし、『被災者の方々の迷惑になる事、お気使いをさせてしまう事だけは避けなければならない。』
そう強く心に決めていた。

しかし、やはり反省点は多かった。
500kmという・・・あれだけ広大な被災地では、
何もかもが無力に、いや、微力にしかならないと痛感した。

しかし、その微力の積み重ね、継続こそが大事なんだ。

とも思った。




僕は、これまでに3度、CARE-WAVE AID公演にボランティアで出演してきた。

貴重な体験をさせて戴いた。

そして今回の復興支援活動も3度いかせていただいた。

うを座の子供達と3度共演させていただいていたから。


僕個人は、ここで一つの区切りをつける事にした。


僕は福島県にも映画の仲間が今も生活している。

来月には岩手県にも入る事にした。

被災地は青森から千葉まで500kmに及んでいるのだ。

新幹線の東京〜大阪間の太平洋側全てが被災している距離だ。


仕事を抱えながら、稽古をしながらなので自由は利かないが、

出来うる事をして行きたいと思っている。



CARE-WAVEにとっては気仙沼は大切な仲間の町。

これからも継続的支援活動を願っている。




kairindian
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by indian_joe714 | 2011-05-16 03:22 | 復興支援 | Trackback | Comments(0)

三たび・・・【気仙沼復興支援】を終えてー5月2・3日ー

5月2日(月)

いよいよ出発の日だ。


これまでは基本CAREメンバーでの活動だったが、
今回は参加希望者を募っての活動。
僕の役者仲間も参加する事になった。


劇団:津田記念日で共演した宇賀神さんとその奥さん。
劇団:演劇倶楽部「座」で一緒だった庭山さん。


3人を午前10時、蒲田で愛車ハリノ助にピックアップし、
横浜の鶴見・・・CAREスタッフ松岡さんの知人、片岡さん宅へ。


ここで加藤事務所さんのバンも合流。

電子レンジ・掃除機・冷蔵庫・ヒーター等の電化製品を物資提供くださり、その積み込み。



積み込み後、横浜の青葉台中学校へ移動。

青葉台中学校では生徒会の生徒が中心となり、
衣料品・靴を大きな段ボール35個に集めてくれていた。

皆でリレー。
バンの天井の荷台に積み込み、ピンクシートで被い、ロープで縛る。
生徒達・先生達は完了を最後まで見届けてくれた。

最後に生徒会長から、気仙沼の子供達への手紙を受け取った。


子供達のキラキラした、強い眼光、願いの込められた手紙。


『思いと物資、ちゃんと届けてきます!』


固く約束し、青葉台中学校を後にし・・・気仙沼へ向けて出発した。

(お昼休みの時間だったので、みんなお昼のご飯を後回しにして待ってくれていた・・・。
みんなちゃんとご飯食べれてかなぁ・・・)


そんな事思いながら、東名高速〜首都高速〜東北道・・・


何だか、この道にも慣れてきた。



昨年は東北道で福島県白河市に何度となく通った。映画の撮影だった。

映画の事、白河の事、おいしい食事の事・・・
楽しく共演者と話しながら、冗談言いながら通った、思い出深い東北道。

今年はその同じ東北道だが、白河市を越え・・・
宮城県気仙沼市へ向かっている、もうこれで3度目だ。



東日本大震災の支援物資搬送・復興活動の為に・・・

こんな風になるなんて、想像してなかった。。。


『必ず近いうちに白河に来る。』


そう思いながら、東北道を走った。




目的地近く。道に迷った。

先に到着し、群馬から生鮮野菜を届けてくれていた
松原さん・亀井さんが車で迎えにきてくれた。


22時、目的地に到着した。



今回の気仙沼では・・・

車中泊は無い。

CARE理事長とうを座さんの方々の関係もあり、
男性陣13名には自治会館、女性陣13名にはうを座のお母様の自宅離れの部屋が用意されていた。

自治会館にはストーブもある。キッチンもある・・・もちろんトイレも・・・。
車も10台程は余裕で駐車可能。。。


『ボランティアで入って・・・こんなに恵まれてしまって・・・いいのか・・・』


この疑問は出発前から抱き、理事長とも散々話したのだが、
こうして到着し、改めて目の前に「温かい部屋」を見ると・・・


やはり、恵まれている。

「遠足に来た訳じゃない。」

と思った。


しかし、今回は人数も多い。
実際、食事・寝場所・トイレ等の準備はそれだけでも困難である。

映画のロケなら、先発の制作部が食事、宿泊場所、トイレを確保し、準備しなければならない。
それほどの人数での、団体行動である。

しかもこれまでより長い、中3日間の滞在で体調管理も必須。
万一体調を崩し、病院に行かなければならない状況等が生まれたら、
それはそれで、迷惑がかかってしまう。



『この恵まれた環境に感謝します。
その分、明日からの復興活動を精一杯努めます。』


心に刻んだ。


こうして昨日まで他人だった26人の、共同生活が始まった。



軽くミーティング。
明日の朝は6時30分起床。
僕は5人で大島へフェリーで渡る事になった。

長距離移動で疲れている。
25時を過ぎたあたり、就寝時間になった。

それぞれ、思い思いの場所で寝袋に潜っていった。。。



僕はまだ寝れない。

実は、今日は後発組もあった。
26時半現在、長者原SAだとCAREスタッフ伊藤さんから連絡が入る。
どうも渋滞が激しい様で、SAも満車との事。


『このまま気仙沼入ります。到着は4時半位になっちゃいそう・・・』

『呉々も気をつけて下さい。わかり難く道に迷うので、何かあったら電話下さい。』


時計を見ると午前3時前。

よし!1時間半寝れる!


すぐ寝た。




すぐ携帯が鳴った!




伊藤さんが到着したとの電話。
時間は・・・午前5時前。


『あぁ・・・寝てたんだ。』


到着組を寝れるスペースに案内し、少しの睡眠を促し・・・



また30分程・・・



寝た。



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5月3日(火)


起きた!

朝6時半。


アニョハセヨ〜


眠い。。。が、スッキリしている。

毎回そうだが、ある種の緊張感に包まれているのだろう。


松原さんが用意下さったオニルギン(おにぎり)ほおばって。

各チームに分かれ出発準備にかかる。

津波でドロドロになった着物を洗濯する組。
同じく食器や家財道具を洗う組。
ヘドロの掻き出し組。
そして僕ら5人は、フェリーで大島へ渡り、群馬からの生鮮野菜を届ける。


フェリーは広島県江田島市が提供してくれたカーフェリーである。
4月27日、一ヶ月半ぶりに就航したばかり・・・。


大島からは買い出しの方々が・・・
大島へは物資を届ける人々が・・・


それでも乗客半分くらいだろうか、乗り込み、大島へ向けて出港した。


湾の海上から見る気仙沼は、惨状を一様に見せつける。

真っ黒に焦げ落ちた船。
沿岸には潰れて壊れた重油タンク。
(この重油タンクから漏れ出た油が・・・あの日、気仙沼を炎で包んだのだ。。。)
海鳥達が無数に飛び、沿岸では何かを突ついている。
海上にはいくつもの「瓦礫島」が出来ている。
(この海底には・・・あらゆるものが沈んでいるのだろう・・・)
流され、水に浸かったままの家屋。



しかし不思議なのは・・・

所々に見える木々「小さな森」とでも言おうか、その脇に立っている家々は・・・
海抜2〜3mに立っている様にも見えるのだが、一見、まったくの無傷に見える。
もちろん流されていない。元立っていた場所に、立っている様に見えた。


「なんでだろう・・・」


津波は20mとも30mとも言われている。
なのに・・・なんで・・・


(自然の猛威から守ってくれるのは、やはり自然なのだろうか・・・)


そんな風に思った。



15分程だろうか・・・

大島が近ついてきた。


「やはり・・・」


気仙沼市内より人が足りていないのは一目瞭然だった。

全くの手つかずの場所が多い。



下船し、目的地の公民館へ向かった。

道中、島をそのまま乗り越えていったと思える程の、津波の被害を横目に見ながら。。。


公民館近くに数人の少年がいた。


「公民館はどこか知ってる?」


聞いてみると、久々に聞く子供の元気な声!


「あそこーっ!」


あまりの元気のよさに、車中の空気は一気にほころんだ。



子供は・・・いい。



公民館には自衛隊車が多く止まっていた。
挨拶し、物資集積先の小学校を教えてもらう。

出発しようとすると、人が大勢出てきて空を見上げている。
手に手に携帯カメラを携えて・・・

その方向を見てみると・・・


横真一文字の虹!


b0139547_17152494.jpg



(なんじゃこりゃ)


見たことの無い、不思議な虹。


(きっと良い知らせ、吉兆に違いない!)



そう思い、乗車し、目と鼻の先にある小学校へ移動した。



小学校では地方からのボランティアの方々が仕切り、
物資の仕分け作業をしていた。

背中にはー阿南市ーの文字。

徳島県からの方々だった。



昨年、やはりCARE-WAVEのワークショップをしに徳島県へ行ったが、
その開催地が阿南市だったのを思い出した。

(あんな遠くから・・・この大島でボランティアをしにきている。)


日本人の素晴らしさ・・・

日本人の他者を思うココロ・・・

日本人の派手ではないが、心のこもった行動力・・・



感動し、感激した。



物資の仕分けは予想以上に苦労した。
それでも皆で協力し、帰りのフェリーに間に合う様に無事に終えた。


お昼にコンビニオニルギンをほおばっていると、
またまた虹が出た。

今度のは太陽を丸く囲む様に・・・

まるで日輪の輪の様だった。


(大島での不思議な虹の連発!きっと素敵に復興する!)


そうは思ったのだが、誰かが・・・

「この虹って、たしかあんまよくないんだよなぁ」

(キーッ!ソンナコトイワナクテイイジャン!)


心配もあったのでtwitterで疑問をなげかけてみた。


早速返事が来る。twitterってすごい!

確かに、気象学的には天候の急な変化等の前兆の意味もある様だ。


でも・・・

『虹は神の祝福です。天から気が出ています。気仙沼の神の祝福を祈るといいです。
先程の横真一文字と並べると、「旦」になります。旦の意味を調べてみるといいです。』

という返事もいただいた。


旦の意味は・・・夜明け・はじまり・誕生だった。


(俺はこれを信じよう。)



仕分け中、一人の女性が僕らの所へやってきて、そのまま離れようとしなかった。

自分でも言っていたが、彼女は精神的な病いにかかっている様だった。

何かというと絡んでくる。
そしてケラケラと屈託なく笑う。

「昔、新宿でホステスしてたんだー」
「お兄さん、いっつも新宿でなにしてんのー?すけべ〜!」

と言われた。

「買い物したり、映画みたりしてるんだよ!」

って答えたのに・・・。



僕らが帰る時・・・

淋しそうに見えた。




体育館では避難生活を送っている大勢の方々が目に入った。

空気が重かった。。。

(少しでも早く、軽くなって欲しい。)

そう思った。



港へ戻り、フェリーを待つ間、少し歩いた。

ネコが・・・固まっていた。



満潮になり、港には海水が上がってきた。

地盤沈下が激しい。


フェリーに乗り、大島から離れた。

気仙沼市内も冠水が始まっていた。。。



宿泊所に戻り、夕食の前に、近所の銭湯に行く事になった。

避難生活をしている方々も利用する銭湯だった。


芋洗い状態だったが、風呂の力は偉大だ。

身もココロもスッキリする。



銭湯のとなりには大きな建物があり、その前には警察車両が2台停まっていた。

建物のガラス面は全てブルーシートで覆われている。

(えっ・・・)

入り口付近には立て看板があった。


[ 行方不明者届出所 ]


その大きな建物は、遺体安置所になっていたのだ。

いったい・・・どれ程の方々が眠っていて、見つかっていないのか・・・


東京のTVでは単に「何万人」という数字で言われるが・・・

こういう事は情報ではなく、一人一人に「思いの籠った」ものだ。



情報だけで知った気になる、恐ろしさを感じた。




宿舎に戻ると・・・


松原さん手作りの『豚汁』が待っていた!


「やったー!」


味も。温度も。そして愛情も。


美味しくいただき、明日への活力が沸いた。


「食」は本当に大事なもの。


心底実感した。




お酒好きな方々は・・・

その後、疲れを癒す為に?飲みの世界に入っていった。



前夜寝ていない僕は・・・


失礼と感じながらも・・・


お先に眠らせていただいた。。。


あっ!という間だった。




続く・・・

kairindian
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by indian_joe714 | 2011-05-10 17:29 | 復興支援 | Trackback | Comments(0)

三たび・・・【気仙沼復興支援】を終えてー出発までー

4月25日(月)


昨年のちょうど3月から4月にかけて・・・僕は映画の撮影に参加していた。

タイトル『こもれび』

オール福島県白河市・西郷村・他、数カ所でのロケだった。

郡山からは専門学校生も大勢参加・協力してくれた。

美しい風景・・・
澄んだ空気・・・
綺麗な河川・・・

『画になる』

そんな中での、大変ながらも充実した日々だった。


この組では、多くの出会いがあったのだが・・・

録音部で参加していたのは松原安穂さんだった。

その松原さんから久しぶりに電話があった。

『気仙沼の支援活動、是非協力させていただきたい。』と・・・。

実は一回目の気仙沼行きの前に、ガソリンの携行缶が中々調達出来ずにいた際、
松原さんにも相談をしており、
「協力出来る事なら何でも協力します。」と、
温かい言葉をいただいていたのだった。

一・二回目は他の方々の多大な協力のお陰様で乗り切ってこれたのだが、
松原さんはその報告ブログ等を見ていてくれたらしく、心配してくれていたのだった。


僕の自宅近所のファミレスで・・・
ランチタイムに久しぶりに再会した。

5時間程だったろうか・・・

被災地の事、支援活動の事、福島原発の事、政治の事、情報の真偽の事・・・

色々と話した。
濃い時間を過ごした。

そして最後に・・・
『役にたてる事なら何でもします。お手伝いがしたい。』
と言って下さった。


こんな風に参加の意志を示してくれる方がいる。
こんなに賛同し、協力を惜しまない方がいる。

その言葉(ココロ)に感動した。
その姿勢に感謝した。

CARE-WAVE理事長に、その存在を伝えた。


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4月28日(木)

理事長と話し、松原さんのご協力をありがたく受ける事になり、
松原さんにその旨をお伝えした。

『よろしくお願いいたします』


また・・・

GW前に終わらせなければならない事があった。
支援物資搬送車量の通行証の申請である。

この日が平日最後の日であり、車両も2台は決まったので、
武蔵野市役所の災害対策課へ向かった。

一回目の申請の際は警察署だった。
緊急車両の通行証申請だったからだ。
手続きも比較的簡素で、直ぐに発行されたのだが・・・

今回は緊急では無いので、作成しなければならない申請書が多く、
記載事項も個人情報に至るまで細部まで求められた。

念のため・・・
僕の自家用車ハリノ助と、友人のバンも使う可能性があったので同時に申請した。

2時間・・・腱鞘炎になるかと思う程の字を書き、提出した。

「手続きしますので夕方5時頃に取りにきて下さい。」

とにかく時間がかかる。

5時に行ってみると、無事に4台の申請に許可が降りた。

通行する高速道。日時。運転者。同乗者。
その全てが指定されるのだが、それでも費用の削減には必要不可欠な申請であり、
我々の様な潤沢な資金の無い集団には欠かせない、行政の支援対策なのだ。



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4月29日(金)

車両の問題、物資の量が思った以上に増えていた事・・・

毎度の事だが予定通りには事は進まない。


前述の松原さんから電話があった。


『鎌田さん(理事長)と直接話し、理事長宅の物資を自分のハイエーススーパーロングに積み込みました。』

『えっ?』・・・


二人ともやる事が早いっ!(笑)


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4月30日

前回までと同様、今回も加藤事務所さんからバンをお貸しいただく事になり、
午前中に鍵を受け取りに行く事になっていた。

松原さんの車両に積まれた物資を分けて積む為、加藤事務所さんで待ち合わせる事にした。

am10:30 加藤事務所さんで鍵を受け取り駐車場へ。

加藤車・松原車を並べ最善策を検討するが、物資量を考えるとどうにもなるとは思えない。

『んー・・・』

実は松原さんには一案あった。
今から、積み込んだ物資を気仙沼へ届けに行き、積み荷を降ろし、そのまま帰京するという強行策っ!


確かにそうすれば丸々一台の車両が空きになる訳で、残りの物資も積み込める。

しかし、その負担は計り知れない。
日帰りで気仙沼往復はどんなに急いでも14時間はかかる。
そんな危険を伴う負担を、松原さんにお願いするのは気が引ける。

それに気仙沼で物資を下ろすにはその場所の確保が必要条件。
気仙沼とのやり取りは理事長がしているので、連絡がつかなければ見切り発車は出来ない。

それでも現状の確保出来ている車両と物資量を考えると・・・


松原さんの率先した気持ちもあり、二人の間では、その強行策が最善!と言う事になった。


理事長にはお互いに連絡を入れたのだが留守電になってしまう。

『腹ごしらえをして待ちましょう。』

近所のファミレスでランチしながら連絡が着くのを願った。


この日、理事長はcare関係者とアメリカでの賛同者とで初のスカイプ会議をしていた。
それもあり午前中は連絡が着かないのは覚悟していた。

しかし、昼の12時を過ぎても連絡が着かない。
13時になっても・・・


「このままだと、たとえ出発したとしても気仙沼到着が夜になってしまう。
それでは気仙沼の方に返って迷惑をかけてしまう。出発するなら少しでも早い方が良いのだが、
このまま連絡が着かないならこの計画は断念するか・・・。
もしくは見切り発車して、理事長になんとか連絡をつけてもらおうか・・・?」


そんな話しも出始めた13時10分を回った頃、ようやく理事長と連絡が着いた。

聞けば朝のバタバタで携帯を家に忘れ、たった今帰宅したとの事。。。

事情を説明し、一刻を急ぐ旨、気仙沼の方と連絡を取って欲しい旨を伝え、返答を待った。


しかし、30分経ってもかかってこない。
業を煮やし再び電話する。


どうも、たった今から出発する事がちゃんと伝わっていなかった様だ。
もう一度正確に伝え、出発する事に決まった。

その前に、昨日今日で新たに理事長宅に届いた物資があるから、
どうせだったらそれも運んで・・・

急遽、理事長宅へ向かい、新たな段ボール10箱程と電化製品を積み込んだ。

pm14:45 出発!

気仙沼到着は21時近くになると思われたが、とにかく出発して下さった。


20時半、そろそろ気仙沼に着く頃と思い松原さんに電話してみると・・・
驚いた事に、19時半には気仙沼に到着し、物資も下ろし、お茶をいただいております。

との返答。

(いったいどれだけ飛ばしていってくれたのか・・・)

「お茶をいただいたら直ぐに帰京します。」

「本当にありがとうございました。呉々も、呉々も気をつけて帰ってきて下さい!」


もっと驚いた事は・・・

am2:00 には立川の自宅に無事に帰宅し、

『大好きなお酒を飲んでいまーっす!』と・・・

メールが返ってきた事だった。。。


なんと12時間かけずに気仙沼往復し、物資の積み降ろしをし・・・

お茶までいただいていたのであった。


恐るべし・・・松原さん。


感謝いたします・・・松原さん。


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5月1日


pm23:30 加藤事務所さんのバンを運転する山本君と待ち合わせ。

僕が長年使用してきたモノではあるが、
まだまだ現役の電子レンジとTVを先積みしに行った。

2年前からバンバン告知していた地デジ化。
今回の震災の影響で、東北地方では7月の実施は見送られた。

そのお陰で、捨てずに保管していたブラウン管TVが役に立つ。

気仙沼のどなたかが・・・

このTVで情報を得て、役にたてる事が嬉しい。

良かった!


いよいよ、明日は3回目の気仙沼復興支援へ出発だ。
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by indian_joe714 | 2011-05-09 03:01 | 復興支援 | Trackback | Comments(0)

三たび・・・届けてきます。

明日5月2日出発で、3度目の気仙沼に行ってきます。

気仙沼市には今GW中、ボランティアが多数来ている様で、
市ではボランティアの受け入れ見送りを4月27日に決定している。


それでも我々が気仙沼へ出発するのは理由がある。

一つは、うを座さんとの繋がりから、引っ越し、泥の掻き出し、大量の着物の洗濯、
40匹近い犬の散歩・・・等々の、現地での作業依頼を受けているから。

もう一つには、3月11日からもうすぐ2ヶ月・・・

避難所や避難先から、アパートや他所への引っ越しをする方が増え、
引っ越し先での生活必需品が皆無な為、その支援物資の搬送である。

「今回も、御陰様で多くの物資が集まりました。
皆様の『思い』にココロより感謝いたします。」

そして最後に、大島への物資の搬送。
市内までは届いていた物資も、大島ではまだまだとの情報を受け、
前回同様に群馬県のJAさんから、多くの生鮮野菜を届けてきます。


今回は『多くの人とボランティア活動』の予定だったが、
現地の状況は刻一刻と変化しており、
臨機応変に対応するのも、とても大切と感じている。


とにもかくにも・・・

明日、総勢26名で気仙沼市に入り、
明後日から人手を分けての活動をして来ます。


「復興への兆しの始まり」が感じられてきた前回から2週間・・・

復興への道を歩み始め、一歩でも進んでいる事を願い、
その歩みを楽しみにしつつ・・・


行ってきます。


kairindian
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by indian_joe714 | 2011-05-02 01:49 | 復興支援 | Trackback | Comments(2)