Aho Mitakue Oyashin !! Ho oponopono !! Native Yamato -kairindian's blog!!- このブログは成田浬(カイリ)本人が書いています。勝手ながら記事へのコメントは承認制にしております。


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kairindian's・・・

【出演情報】

Project Nyx 第16回公演
「時代はサーカスの象にのって」

2017/1/19〜23
@新宿FACE

詳細は下段のBlogカテゴリー「最新出演情報」に記載。


===========


2011、3、11・・・
東日本大震災により被災されました皆様に心よりお見舞い申し上げます。

また、この震災で失われてしまいました多くの方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

・・・

この未曾有の大震災、並びに終息の見えない福島第一原発事故による多大な被災は、現在の日本・人類・世界への、地球や太陽系からの強烈なメッセージと受け止めております。


先ず、第一に放射性物質拡散に依る二次被害の収束、そして一日も早い東北・東日本の復興を願い、そして地球や太陽系の望む、未来の日本・人類・世界の「真の幸福」のために、役者・ナレーター・講師として、何より人として、微力ながら出来る事をして参る所存です。

2011、5、31
kairindian


『人の都合より自然の摂理を尊重し、地球を母、動物・植物を兄姉と敬い、大いなる神秘との出会いの為に。』


大いなる必然の神秘と出会う旅。。。


ーkairindianー

みんなが幸福になること。

大切なのは、みんなが幸福になることです!

ーkairindianー

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カテゴリ:復興支援( 13 )

2014/3/11

2011/3/11

あの時、僕は地下の小さな劇場にいた。演劇の街、下北沢の。

舞台上では、満員のエレベーターが落下して人々が右往左往しているシーンだった。頭上の照明も激しく揺れ、客席も揺れる。恐い。こんな激しい演出?な訳ない。地震だっ!!!

主演女優は熱演で気付かない、客は舞台上で続く芝居に逃げて良いのか解らずに、ただ座って焦っていた。

長く...長く続く地震にようやく気付いた女優さんは突然叫んだ。「ちょっと待って、待ってー!皆さん、これから私達が避難の支持をしますので焦らずに避難しましょう!」言うや否や舞台上から飛び降り、我々は誘導され、地上に出た。


地上に出ると、多くの人が路上で空を見上げていた。全ての人に見たことも無いような大きな動揺が見えた。井の頭線が高架の上で止まっていた。

こんなに多くの人が歩いている甲州街道は見たことが無い。
みな、歩いていた。歩いて歩いて、ヒッチハイクして、助けて、家に着いたのは夕方6時をまわっていた。。。


TVをつけると...信じられない光景が繰り返し繰り返し流れていた。津波。
それも東北のあらゆる街が...どこもかしこも津波、津波、津波。。。

明くる日は、福島原発が爆発し、その後、また爆発し、また爆発した。。。

放射能を調べた。放射線と放射性物質が違うことも初めて知った。そのくらい...無知だった。

防護マスクをネットで購入した。

気仙沼に行かなければならなかった。共演者の子供達がいっぱいいたから。誰が何と言おうが、放ってなんておけなかった。

3/22に気仙沼へ行き、津波被災を目の当たりにして愕然とした。言葉なんて出るはずも無く、ただ涙が溢れた。三途の川のようだった。。。

脳裏に焼き付けられた光景は、東京に帰っても僕の心を支配していた。加えて放射能汚染。途方も無い。何もわからない。どうすりゃいいのかなんにもわからなかった。ただ、4月にも気仙沼に行こうと決めた。



その最中で、大好きな監督のクリスタルガイザーCMナレーションの仕事。

Mt.Shastaと出会った。。。

美しかった。ただただ美しかった。
雄大に、荘厳に、大きく、強く、優しく、そこにそびえ立っていた。

「何にも恐れる必要は無い。自然の意のままに受け入れ、浄化し、美しくして、次へ繫ぐ。それだけ。」

「”Shasta”に来なさい」

そう言われているようだった。


「”Shasta”に行こう !!!」

心に決めると、色んな事が動きだし、恵まれた出会いに導かれる様に7月25日には ”Shasta” にいた。


空気、空、水、大地、木々、動植物、人、花々、虫....全てが生きていた。活きていた。

なんだかわからないけど...

愛に満ちていた。


沢山のオーブに出会い、”Shastaの主”に出会い、一筋の光に出会った。

Native Indianの魂が力強く騒ぐ。


ハートレイクの畔で 「カイリさんには、Gland Circleへ行って欲しい!!」

出会ったばかりのサンフランシスコ在住の日系人にそう言われるがままに

「必ず行きます!!」

と答えていた。


半年後の2012/2/26に、母と共に父を南太平洋に還した僕は、その足で ”Shasta” に飛んだ。

2012/3/11は、冬の "Shasta"にいた。

その後、車で1ヶ月の ”Gland Circle” への旅に出た。

"Shasta"が緑と白の、水が豊かな大地

と例えるならば

"Gland Circle"は赤と青の、空の広い大地

だった。


"Sedona"から始まった”Soul Journey”は、増々、”Native Indian Soul”に栄養を与えてくれた。



東京に帰ると、人間が人間の為だけに、経済の便利と利益だけを追い求め、他人を苦しめてでも、自分だけは豊かでありたい社会が支配していた。一人一人は違うのに、社会は真逆を進んでいる。その歩みは、留まろうとすらしない。まるで、地獄への坂道を、真っ逆さまに突っ込んで行く様に見える。ブレーキの掛け方すら知らず、ブレーキをかけようともしない、身勝手な権力者の支配に、多くの民衆が汲々として、右往左往して、答えが解らずに、その特急列車に乗り込んでいる。

『みんな、その列車から飛び降りろ! 今直ぐに! 』

そう叫ぶが、届かない。

届いて欲しい。

だが、その列車の発する轟音は、僕の声なんて簡単にかき消してしまうのだ。



その後も、僕は追い求める。

何を、どうしたら良いのかなんてわからない。

それでも僕は追い求めた。


国内をできるだけ旅した。東北、北海道、信州、四国。。。

”Native”の根源を知りたくて、アボリジニの故郷を知りたくて、オーストラリアを3週間走り抜けた。

”Native”の歩みを知りたくて、アラスカの先住民を知りたくて、アラスカの大地を北極圏まで走り抜けた。


そして、2013/7/26巡り会った女性と結魂し、2014/1/1に入籍し、今を迎えている。


この先の未来に何があるというのだろう???


2011/3/11以前に、今の僕の存在なんて自分でも想像出来なかった。


それでも僕は、新たなる未知なる道をこうして歩んでいる。

一緒に歩く人もいる。

これからも、石ころにつまずいたり、川の渡り方に困ったり、
僕は、確実に真の幸福に向かっているのだと強く信じることができている。


これまでに出会った全ての人に感謝している。

その中でもとりわけ強く影響を与えてくれた人には一層感謝している。

その全ての繋がりが、今の僕を、この様にしてくれているのだから。。。


本当にありがとう。


地上で生命の営みを続けている魂にも、旅立った御霊にも、この言葉を全ての繋がりに捧げる。


""Aho Mitakue Oyashin""
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Kairindian
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by indian_joe714 | 2014-03-11 11:21 | 復興支援 | Trackback | Comments(1)

自家製乳酸菌【リジュベラック液】の作り方

<工程1>

用意するもの

・空の1L炭酸飲料ペットボトル
・玄米2カップ(産地、農法の良好なものが良い)
・水700ccくらい(美味しい水・きれいな水)
・粗塩7g
・にがり3g(にがりは無くても大丈夫です)



作り方

上記の空きペットボトル(1L)に玄米・水・粗塩・(にがり)を入れてシェイク。

こまめにシェイクやひっくり返したりして玄米に発生したガスをボトル上面に集めて、

ゆっくりとフタを緩めてガスを抜いたりしながら、暖かい場所(出窓など。理想温度30〜35度)に一日放置。


リジュベラック700cc(いわゆる「とぎ汁」、黄色っぽい薄茶色っぽい液)を作る。



<工程2>

用意するもの

・作ったリジュベラック700cc
・空の1.5L炭酸用ペットボトル
・水800cc
・粗塩5g
・にがり3g(無くても可)
・黒砂糖45g


作り方

新しい空きペットボトル(1,5L)に上記を投入しよくシェイク。暖かいところに放置。(理想温度30〜35度)

毎日シェイクして混ぜ合わせる。ガス抜きも。

ガスの出が悪くなって色が変わってきたら味見して、酸味が強まったら完成。

大体、1週間程で完成する。



【完成品】

臭いは・・・

納豆・酢・みたいな感じ。所謂、発酵菌を作っているので発酵臭ければ成功。

色は・・・

薄茶色、薄黄色、透明な茶褐色な感じです。おしっこみたいな色っぽくても可。


雑菌等が大量に入るともっと不快な、気持ち悪い臭いになる。
その場合は粗塩や黒砂糖を少量足したり放置したりして様子を見る。



このリジュベラック液の中では、目には見えずとも大量の乳酸菌が生きていて、
えさ(粗塩、黒糖)を食べながら生き生きと生きています。えさのあげ過ぎは必要ありません。
仕上がり後は1週間〜2週間に1回程度で充分です。
使用期限正確にはわかりませんが、僕は5月に作ったものを今でも充分元気に使用中です。
(10月20日現在)



使用方法

1)完成したリジュベラック液を少量のスプレーポンプ容器等に入れる。

空気中に散布し鼻、口からその空気を吸う。(臭い)

体内、特に肺に吸入する事で体内に入っ異物を乳酸菌が食べて対外に排出する。



2)完成したリジュベラック液と無調整豆乳から豆乳ヨーグルトを作る。

これは上手くいくと本当に美味しい!失敗するとチーズや豆腐の様になる。

しかし、失敗作も美味しくはないが食べてみたりしました。 この豆乳グルトの作り方もご興味お有りの方にはお伝えしますよ!



3)リジュベラック液を雑巾に散布。部屋の床や柱等、全ての拭き掃除に使用する。

最初は臭いが、乾いて時間が経過すると部屋の空気が澄んで、美味しくなる。





散布と拭き取りによって、部屋の環境を乳酸菌で満たすのが目的。

カビ菌や他の菌を乳酸菌が食べてくれます。


以下、facebookのノートにも掲載しました!

http://www.facebook.com/notes/%E6%88%90%E7%94%B0-%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%AA/%E8%87%AA%E5%AE%B6%E8%A3%BD%E4%B9%B3%E9%85%B8%E8%8F%8C%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E6%B6%B2%E3%81%AE%E4%BD%9C%E3%82%8A%E6%96%B9/262985010413153


放射能に負けない!
ガンに負けない!
科学と医学の実験台にならない!

産んでくれた両親やご先祖様の結晶が今日の我々自身です。

感謝し、全うする事が我々自身の命(めい)と思っています。

可能性がある限り、同時代、同国に生を受けている者同士、頑張って生き抜きましょう!


kairindian
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by indian_joe714 | 2011-10-20 14:04 | 復興支援 | Trackback | Comments(0)

三たび・・・【気仙沼復興支援】を終えてー5月4・5・6日ー


ブログ更新に時間が空いてしまい申し訳ありませんでした。

やっと報告ブログを書けましたので、アップいたしました!



5月4日(水)

午前6時半に起床すると、台所では松原さんが全員の朝食の準備をしていた。

水をイッキに一杯飲み干し、台所へ・・・お手伝い。
久々に包丁を握り、納豆をとき・・・

やっぱり、ご飯と納豆とみそ汁は・・・最高だ。



午前9時

準備をし、それぞれの持ち場へ向けて出発。

僕は『亀山肉店』さんの店舗兼住居のヘドロ掻き出し作業だった。
昨日のフェリー乗り場が眼前に見える港から、一本裏通りに入った道沿いに建っている。

一本裏通り・・・

津波にとっては一本裏も何も無い、どこもかしこも海水の通過点になっていた。


昨日、我々とは別の方々が、肉店特有の大きな機器を運び出してくれており、
残るは床に溜まったヘドロ・・・の状態だった。

僕と女子2人。
スコップとネコで作業を始める。

2人の女子は淡々と作業をするが、彼女等のキビキビした動きは早い。
そして、その若さのキビキビした姿勢は、見ている人を元気にする。

「若い」っていいなぁ・・・と思った。


この辺りはまだ水道が復旧していない。
道を隔て、山側へ徒歩50m程離れた場所のお宅が、辛うじて水が出る。

バケツで水を汲み、運び・・・

ヘドロを除去した床に水を流し、その汚泥をまた掻き出す。
単純な作業だが、それが苦労する。

その上、ここでは排水溝がヘドロで詰まっていて水が流れないので、
排水溝のヘドロ除去をしながらになる。

床の汚泥除去にはスコップよりも適した道具があるはずだった。
先がゴムになっていて、一気にかき寄せる事の出来る・・・あれ!(名前が解らない)

東京ではあると便利な作業道具もすぐ手に入るが、ここではどうなのか?
近所のお宅で作業していた別班に、もしあったら貸してもらえるか聞いてみる。

工具等を扱う大きな作業店は営業しているらしく、理事長の判断で買い出しに行く事に。

運良く3本購入出来、そのお陰で作業が飛躍的に進んだ。


午前中のうちに、床面はほぼ綺麗になっていた。しかし・・・


朝からずっとだが、とても臭い。

奥の一番暗い所に大きな扉があり、3㎝程隙間があったが、
臭いの発生元は、どうもそこらしかった。


開けてみると、そこは巨大な冷凍庫だった。

入り口付近まで山積みにされた肉。

震災からほぼ2ヶ月、電気も止まり、腐敗が進んでいた。



午後には店主さんが顔を出してくれる様だったので、
店主さんの意向を伺ってから、腐敗肉の運び出しを検討する事になった。



途中、従業員さんがゴミ袋とジュースの差し入れに来てくれた。

(この厳しい状況にあって、まだ僕らを気使ってくれる。)

気仙沼の方々の他人を思いやる心に・・・何度出会った事だろう。。。


心の中で涙があふれた。

その従業員の方と、数分、立ち話をした。

『ここもですが、まだ、海が見える所に来るのが怖いです・・・』

この言葉を聞いた時、彼の目の奥に、津波が見えた。

(本当の怖さ、どんなにか怖かったのか・・・)

それを思うと、口を出る言葉に窮してしまった。。。



昼食は、松原さんの握ってくれたオニルギン(おにぎり)。
海を・・・景色を見ながら・・・一人で食べた。


(この穏やかな海が。。。このキレイな風景が。。。
あの日、ほんの数分の地球の揺れが・・・こんなにも大きな、
こんなにも全てのものを飲み込み、奪い、悲しみを生んでしまった。。。
地球って・・・何なんだ。。。)



ボーッとしながら、食べた。




午後。

亀山肉店さんのご夫妻が来て下さった。

腐敗肉の処分を・・・決断し、お願いされた。


『わかりました。処分させていただきます。』



ご夫妻とも数分間の立ち話をした。

「今日は何時くらいまでの作業になる予定ですか?」

「3時か3時半には終わろうと思っていますが」

「そうですか・・・本来でしたら父が御挨拶するのですが、今日は人工透析をしていまして・・・」

「そんな、気になさらないで下さい。どうぞ静養なさって下さい。僕らは出来る作業をしたら帰りますから。」

「感謝しておりますが感謝の言葉では足りません。このご恩は一生忘れません。感謝してもしきれません。」と・・・


奥様は手を合わせ、涙を浮かべながら・・・そうおっしゃり、
旦那様は時折うなずきながら、ただ、じっと僕の目を見ておられた。


そして・・・



「8歳の息子が・・・未だ行方不明なんです」




「っ・・・・・・・・・」



僕には・・・適切に返せる言葉も、、なく、、、

ただ、うなずき・・・懸命に受け止めようと・・・

そして、涙をこらえ、、、

「聞く」・・・ことに集中するだけだった。。。




(僕にできる事って・・・)






別班から人出を呼び、8人で腐敗肉の運び出し作業に入る。

冷凍庫の扉を開けると・・・

信じられない臭いの大群が一気に押し寄せて来た。


濡れた段ボールは形を崩し、
中の肉が床に落ちバラバラになる。
バラバラになった瞬間から新たな臭いが生まれる。


牛・豚・鳥・鹿・ホルモン・・・


手のひらの部分がゴムの手袋になっていたので、わし掴みで、
次の人が口を大きく開いて用意しているゴミ袋に、次々に入れて行く。


息ができない。


しかし、これは休憩等していられない。一気にやるしか無い。

誰もが暗黙の了解をしていたはずだ。


汗で・・・2重にしていたマスクの地肌側のマスクが、鼻と口に吸着する。

息ができない。

一瞬、マスクを浮かす。

口で吸う。

口からも臭いが来る。むせる。。。


暗くて・・・

一体どれほどの広さがあり、どこまで続くのか・・・


最初は最前線にいた僕も、限界を感じた。

誰に何と言われようが・・・無理は無理!


『こうたーい!』


入り口付近を運び出した時点から、理事長が最前線に入った。

二番手には、実家がお肉屋さんの女子。


残り4人は次々に出される肉を袋に積め、口を結ぶ。

後の2人はそのゴミ袋を外の集積場所に運んで行く。


床に落ちたホルモンからは血が流れる。


僕は、腹の中から返ってくるモノがあり・・・

何度か外へ飛び出し、呼吸を取り戻しては中に戻り・・・

作業を続けた。


理事長は覚醒していた。

何かに取り憑かれた様に、脇目もふらず肉に突っ込んで行った。




45分。




終わってみれば4畳半程の冷凍庫だったろうか。
それでも、床から天井までびっしりに積み上げられた肉達は、
ゴミ袋100袋位にはなっていたのではないだろうか。。。


結局、理事長が最後まで最前線に入り、二番手はお肉屋さんの女子がやり遂げた。


後で聞いて引いたが・・・

理事長は鼻で呼吸をしていた様だ。

「臭いに慣れた。」と言っていた。




とにもかくにも・・・

一番の難題だった腐敗肉の運び出しを終える事ができた。





店主さんご夫妻の深い悲しみの代わりにはなれるはずも無い。

それでも、この腐敗肉を運び出した事が、何かのお役に立つのだったら・・・

やって良かった。そう思う。




再び、汚れた床を洗い、体中に付着した肉汁を洗い、亀山肉店さんの作業を終えた。


別班に移動し、ヘドロでやられている家具や食器の洗浄作業をした。



しばしの休憩中・・・


気仙沼うを座の副座長、阿部さんは、先程の腐敗肉運び出しも
一緒になって参加して下さっている。
その阿部さんが、気仙沼の祭りで吹くと言う笛を吹いて下さった。

海を見ながら・・・
海に向かって・・・

あの日、荒れ狂った海・・・
今は穏やかな海・・・

僕より大先輩の阿部さんには、数えきれない思い出のあるこの気仙沼。

その阿部さんは・・・

何を思い、何を感じ、何を見ながら、笛を吹いているのだろう。。。

雄大で・・・
澄んでいて・・・

綺麗な音色の笛。

僕の視線は海を見て・・・
耳は笛の音に聞き入り・・・

深い何かを感じながら・・・

夢の様な数分間を感じさせて下さった。。。。




夕方5時。

全ての作業を終え、買い出しをし、宿泊場所へ戻った。

銭湯へ行き、身体の汚れと・・・臭いを洗い流し・・・

松原さんの夕食をいただき・・・



生きた心地がした。

帰ってきた・・・気がした。


多少大げさかもしれないが、それほどの言葉で伝えたくなる・・・一日だった。



夕食後、それぞれの班の作業報告。

皆、それぞれが報告した。皆、沢山話す。


(あぁ、これほど話したいんだ。それほどの事を、今日一日、感じて来たんだ。。。)



そんな風に感じながら皆の報告を聞き、


(東京での意見交換や会議の際に、人が話したがらない理由って何だろう?)


と思った。

本当に感じてないから話せないのかも。

本当に感じるべき事が、東京には無いのかも・・・とも思った。


コンクリートで固められ、経済メインの社会で話す事って・・・



動物的本能からすると・・・


全てが『虚無』なのかもしれない。


そう感じていた。






そんな夜は・・・飲むに限った。

久々に飲んだ!

はしゃいで、冗談言って、すぐに酔って・・・



やはり、皆より少し早く・・・


寝袋に潜り込んだ。。。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


5月5日(木)


起床6時半。

今日も松原さんは5時半に起きて朝食の準備をしてくれていた。

お手伝い。お手伝い。


ご飯とみそ汁と納豆。


本当に幸福である。幸福を実感する。


「ごちそうさまでした。」

「ありがとうございました。」



今日の僕の作業は『思い出探し』

唐桑町という場所で津波被害に遭われ、
全てが流されてしまった所での大切な思い出の品を探す作業。


この日は朝からヒンヤリしていた。。。


この日で一足先に帰られる亀井さんご夫婦と、別れの挨拶。
群馬から生鮮野菜を集め、運んで下さった夫妻である。

「また、きっと会おう!」

固く握手して別れた。



午前9時半。
50分程の距離にあると聞いていた唐桑町へは、11人が3台の車に乗り込み出発した。

40分程走っただろうか。

(そろそろ近く迄来てるんじゃないかな?)

と感じた頃に、事故は起きた。


先頭の先導車両は気付かずに行ってしまったのだが、

2台目の加藤事務所さんのバンが上り坂途中でいきなりのバースト。

3台目の僕は急停車し、車を降りた。


案の定、酷いバーストだった。


僕の車の工具を出してはみたものの、
皆、この様な経験は無い者の集団だった。
やれば何とかなったかもしれないが、万が一のため・・・

やはりここは一番頼りになる、松原さんに来ていただこうという事になり、
松原さんに電話した。

『わかりました。すぐに向かいます。』

『良かったぁ・・・』



その間に、僕の車で行ける人はピストンで行く事にした。


3人が残り、8人は現場へ向かった。


言うまでもなく・・・

ここへ来る迄の道程は、紛れも無い被災地の間を走って来た。

どこもかしこも・・・

まだまだ全くの手つかずの家々が溢れていた。



現場はさらに酷かった。

家の形がどこにも無い。


恐らくは田園、田畑があり、一軒一軒の家が適度な距離感で建っていたのだろう。

周囲は山に囲まれている。


リアス式海岸の奥地にあるこの唐桑町の海は・・・

アメリカの片田舎の湖畔を思い起こさせる様な、
それはのどかな、綺麗な風景だったに違いない。


現に、海と山だけを見る分には、充分すぎる程、綺麗で美しい。


しかし、一度その目線を陸にあげると・・・

見渡す限り・・・荒涼とした瓦礫の町になっていた。。。



ピストンで先に入った8人は現場迄徒歩で入り、
僕は事故現場に戻った。


松原さんが早々に到着し、バーストタイアを取り外し、
スペアタイアが取り付けられていた。


『本当にありがとうございます。』


一同、現場へ向かった。


松原さんも現場迄来て下さり、舗装されていない土砂の道路での
帰りの運転、タイヤの事を気にかけて下さった。


「それじゃ、僕は宿泊所の方付けに帰ります。」

そう言った松原さんの表情が、少し淋しそうだった。


(松原さんもきっと、被災現場で直接役に立つ作業がしたいのだろう。
それでも今回の自分の役割は、現場に行って作業する皆さんの「食」をちゃんと管理し、腹を満たす事。
自分の役割に集中し、自我を出さない様にして下さっている姿勢を感じ、感謝せずにはいられない。)

『本当にありがとうございました。』




やっと全員揃い・・・『思い出探し』が始まった。


『思い出探し』と言っても、まず目の前に表れるのは瓦礫である。


瓦礫・・・一言で言うには表現しきれない。


千切れて曲がっているトタン。
途中で折れている家の柱や窓枠等の木。
流木。
畑の土に植わったままのネギの集団。
壊れた家具。
椅子。
海のブイ。
海藻。
破れた衣服。
靴。
大小のガラスの破片。
カーテンレールやボロボロのカーテン。
土。
紙類。





そんな中から時折出て来る、

写真。
泥だらけの手紙。
本。
割れていたり、全くの無傷だったりする食器。
バインダー。
名前の書いてあるランドセル。
人形。
財布。
サッカーボール。
漁具の類。
子供服。






それにしても途方に暮れる。

ここだけでも、東京ドームより遥かに広い範囲に津波で運ばれてしまっている。

11人なんて・・・少なすぎる。。。

それも瓦礫の類をどかしながらの作業は遅々として進まない。


津波によって無作為に運ばれた大きな流木は行く手を遮る。

どかそうにも何でも絡まっていてびくともしない。



それでも時折『ふっ』と出てくる思い出と思しき品を目にすると、


(やった。みつかった。)


と、ココロにほんの少しの充足感が生まれる。

そして、また次を探す。

繰り返し繰り返し。



一人やご家族の方々だけよりはましなのだろうけど・・・

(もっと一気に、大勢で取り組めば、まだまだ多くの『思いで』が見つかるだろうな。)

と思ってしまう。



松原さんのオニルギン昼食をいただき・・・



午後も探す。



天気は曇り空。

5月とは思えない程肌寒い。



午後3時半。

ここでも満潮の時間になった。

見ると入り江から続く川の水かさが、もう地上スレスレまで上がって来ている。

場所によっては溢れ出て、沼地の様になっている所もある。



(これが現実なんだ。何も終わっていない。日々、浸水している。)



「そろそろ引き上げよう。」という事になり、

車を止めてある所まで移動し、


「たいしたお力にもなれませんでした。」

と言った僕に、依頼してくれたお母様は、それでも大変喜んで下さった。


「皆さんのお陰様で、沢山見つかりました。」



この区域には、そろそろ自衛隊が入るらしい。
重機も入る事になる。

そうすれば瓦礫の撤去は飛躍的に早く進むことだろう。

しかし、その瓦礫の下に埋もれている、小さな小さな『思いで』を見つけるのは・・・

やはり人間の手作業でしか進められない。


時間はかかるが、丁寧とは、そう言う事なのだと思う。



「時間の節約」って、何の為にあるのだろう。。。


そんな事・・・考えながら宿泊場所への帰路についた。




今日は最終日。

有志の8人は残ってGWいっぱい作業を続けるという。

残りの14名はこれで帰京。

帰京組は準備をし、それぞれ別れの挨拶をし、車両に分かれ・・・


出発。

気仙沼の地を後にした。






最終日は温泉で疲労を癒してから帰京する。

今回はその予定を組んでの活動だった。


もちろん遊びに来た訳では全く無いが・・・

活動した自身への労いは必要と思う。



一関インター近く、桃の湯。

大きな施設で、バイキングの夕食もあり、久々にゆったり出来た。


疲れを癒す事ができる幸福。

気仙沼だけでは無い。

可能なだけ早く、被災された方々が癒される時が来ます様に。。。


気持ちを新たに・・・


東京に向けて出発した。



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5月6日(金)



途中、長者原SAで3時間程の仮眠。


東京へは朝の7時。


無事に到着した。

他の皆も三々五々、無事に到着した様だった。


何はともあれ・・・

無事に今回の支援活動を終えられた事に、感謝致します。


ありがとうございました。



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5月9日(月)


残り組8名。無事帰京。



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ー3度の気仙沼復興支援活動を経てー



311以降・・・

3度の気仙沼支援活動を行わせていただきました。



311・・・

全てはこの日、あの揺れから始った。

徒歩・ヒッチハイクで、やっとの思いで帰宅。

自宅でTVをつけ、燃えている気仙沼が映っていた。


『えっ!!!まさか・・・・・・・・・・』


信じられなかった。


twitterで気仙沼の知人の救助を求め、
3日後に、その知人の病院から、多くの方が自衛隊のヘリで救助される模様を見た。

自分にも何か出来るんだ。と感じた瞬間だった。


NPO法人CARE-WAVEに籍を置く僕は、理事長との電話で言った。


『行った事も無い、どこかの国で起きている飢餓・貧困・戦争を歌って踊って訴えるのもいいけど、
今、この日本で、人類史上最悪の事態が起きてしまっている。
この現実を無視して、ボランティアミュージカルなんて有り得ない。
しかも、これまでの公演には気仙沼のうを座の子供達も毎回参加してくれている。
ボランティアするNPOなら、気仙沼に行き、出来る事しましょう。』


理事長は『私もそう思っている。全く同感。』

そこからの始まりだった。


この2ヶ月・・・


明けても暮れても、気仙沼の事と、支援活動の事ばかり考えていた。
考えていただけではない。その準備、心構え、活動内容・・・

情報を調べ、集め、共有してきた。



僕たちは自衛隊では無い。こういったボランティア活動に慣れている訳でもない。
わからない事だらけ。
しかし、『被災者の方々の迷惑になる事、お気使いをさせてしまう事だけは避けなければならない。』
そう強く心に決めていた。

しかし、やはり反省点は多かった。
500kmという・・・あれだけ広大な被災地では、
何もかもが無力に、いや、微力にしかならないと痛感した。

しかし、その微力の積み重ね、継続こそが大事なんだ。

とも思った。




僕は、これまでに3度、CARE-WAVE AID公演にボランティアで出演してきた。

貴重な体験をさせて戴いた。

そして今回の復興支援活動も3度いかせていただいた。

うを座の子供達と3度共演させていただいていたから。


僕個人は、ここで一つの区切りをつける事にした。


僕は福島県にも映画の仲間が今も生活している。

来月には岩手県にも入る事にした。

被災地は青森から千葉まで500kmに及んでいるのだ。

新幹線の東京〜大阪間の太平洋側全てが被災している距離だ。


仕事を抱えながら、稽古をしながらなので自由は利かないが、

出来うる事をして行きたいと思っている。



CARE-WAVEにとっては気仙沼は大切な仲間の町。

これからも継続的支援活動を願っている。




kairindian
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by indian_joe714 | 2011-05-16 03:22 | 復興支援 | Trackback | Comments(0)

三たび・・・【気仙沼復興支援】を終えてー5月2・3日ー

5月2日(月)

いよいよ出発の日だ。


これまでは基本CAREメンバーでの活動だったが、
今回は参加希望者を募っての活動。
僕の役者仲間も参加する事になった。


劇団:津田記念日で共演した宇賀神さんとその奥さん。
劇団:演劇倶楽部「座」で一緒だった庭山さん。


3人を午前10時、蒲田で愛車ハリノ助にピックアップし、
横浜の鶴見・・・CAREスタッフ松岡さんの知人、片岡さん宅へ。


ここで加藤事務所さんのバンも合流。

電子レンジ・掃除機・冷蔵庫・ヒーター等の電化製品を物資提供くださり、その積み込み。



積み込み後、横浜の青葉台中学校へ移動。

青葉台中学校では生徒会の生徒が中心となり、
衣料品・靴を大きな段ボール35個に集めてくれていた。

皆でリレー。
バンの天井の荷台に積み込み、ピンクシートで被い、ロープで縛る。
生徒達・先生達は完了を最後まで見届けてくれた。

最後に生徒会長から、気仙沼の子供達への手紙を受け取った。


子供達のキラキラした、強い眼光、願いの込められた手紙。


『思いと物資、ちゃんと届けてきます!』


固く約束し、青葉台中学校を後にし・・・気仙沼へ向けて出発した。

(お昼休みの時間だったので、みんなお昼のご飯を後回しにして待ってくれていた・・・。
みんなちゃんとご飯食べれてかなぁ・・・)


そんな事思いながら、東名高速〜首都高速〜東北道・・・


何だか、この道にも慣れてきた。



昨年は東北道で福島県白河市に何度となく通った。映画の撮影だった。

映画の事、白河の事、おいしい食事の事・・・
楽しく共演者と話しながら、冗談言いながら通った、思い出深い東北道。

今年はその同じ東北道だが、白河市を越え・・・
宮城県気仙沼市へ向かっている、もうこれで3度目だ。



東日本大震災の支援物資搬送・復興活動の為に・・・

こんな風になるなんて、想像してなかった。。。


『必ず近いうちに白河に来る。』


そう思いながら、東北道を走った。




目的地近く。道に迷った。

先に到着し、群馬から生鮮野菜を届けてくれていた
松原さん・亀井さんが車で迎えにきてくれた。


22時、目的地に到着した。



今回の気仙沼では・・・

車中泊は無い。

CARE理事長とうを座さんの方々の関係もあり、
男性陣13名には自治会館、女性陣13名にはうを座のお母様の自宅離れの部屋が用意されていた。

自治会館にはストーブもある。キッチンもある・・・もちろんトイレも・・・。
車も10台程は余裕で駐車可能。。。


『ボランティアで入って・・・こんなに恵まれてしまって・・・いいのか・・・』


この疑問は出発前から抱き、理事長とも散々話したのだが、
こうして到着し、改めて目の前に「温かい部屋」を見ると・・・


やはり、恵まれている。

「遠足に来た訳じゃない。」

と思った。


しかし、今回は人数も多い。
実際、食事・寝場所・トイレ等の準備はそれだけでも困難である。

映画のロケなら、先発の制作部が食事、宿泊場所、トイレを確保し、準備しなければならない。
それほどの人数での、団体行動である。

しかもこれまでより長い、中3日間の滞在で体調管理も必須。
万一体調を崩し、病院に行かなければならない状況等が生まれたら、
それはそれで、迷惑がかかってしまう。



『この恵まれた環境に感謝します。
その分、明日からの復興活動を精一杯努めます。』


心に刻んだ。


こうして昨日まで他人だった26人の、共同生活が始まった。



軽くミーティング。
明日の朝は6時30分起床。
僕は5人で大島へフェリーで渡る事になった。

長距離移動で疲れている。
25時を過ぎたあたり、就寝時間になった。

それぞれ、思い思いの場所で寝袋に潜っていった。。。



僕はまだ寝れない。

実は、今日は後発組もあった。
26時半現在、長者原SAだとCAREスタッフ伊藤さんから連絡が入る。
どうも渋滞が激しい様で、SAも満車との事。


『このまま気仙沼入ります。到着は4時半位になっちゃいそう・・・』

『呉々も気をつけて下さい。わかり難く道に迷うので、何かあったら電話下さい。』


時計を見ると午前3時前。

よし!1時間半寝れる!


すぐ寝た。




すぐ携帯が鳴った!




伊藤さんが到着したとの電話。
時間は・・・午前5時前。


『あぁ・・・寝てたんだ。』


到着組を寝れるスペースに案内し、少しの睡眠を促し・・・



また30分程・・・



寝た。



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5月3日(火)


起きた!

朝6時半。


アニョハセヨ〜


眠い。。。が、スッキリしている。

毎回そうだが、ある種の緊張感に包まれているのだろう。


松原さんが用意下さったオニルギン(おにぎり)ほおばって。

各チームに分かれ出発準備にかかる。

津波でドロドロになった着物を洗濯する組。
同じく食器や家財道具を洗う組。
ヘドロの掻き出し組。
そして僕ら5人は、フェリーで大島へ渡り、群馬からの生鮮野菜を届ける。


フェリーは広島県江田島市が提供してくれたカーフェリーである。
4月27日、一ヶ月半ぶりに就航したばかり・・・。


大島からは買い出しの方々が・・・
大島へは物資を届ける人々が・・・


それでも乗客半分くらいだろうか、乗り込み、大島へ向けて出港した。


湾の海上から見る気仙沼は、惨状を一様に見せつける。

真っ黒に焦げ落ちた船。
沿岸には潰れて壊れた重油タンク。
(この重油タンクから漏れ出た油が・・・あの日、気仙沼を炎で包んだのだ。。。)
海鳥達が無数に飛び、沿岸では何かを突ついている。
海上にはいくつもの「瓦礫島」が出来ている。
(この海底には・・・あらゆるものが沈んでいるのだろう・・・)
流され、水に浸かったままの家屋。



しかし不思議なのは・・・

所々に見える木々「小さな森」とでも言おうか、その脇に立っている家々は・・・
海抜2〜3mに立っている様にも見えるのだが、一見、まったくの無傷に見える。
もちろん流されていない。元立っていた場所に、立っている様に見えた。


「なんでだろう・・・」


津波は20mとも30mとも言われている。
なのに・・・なんで・・・


(自然の猛威から守ってくれるのは、やはり自然なのだろうか・・・)


そんな風に思った。



15分程だろうか・・・

大島が近ついてきた。


「やはり・・・」


気仙沼市内より人が足りていないのは一目瞭然だった。

全くの手つかずの場所が多い。



下船し、目的地の公民館へ向かった。

道中、島をそのまま乗り越えていったと思える程の、津波の被害を横目に見ながら。。。


公民館近くに数人の少年がいた。


「公民館はどこか知ってる?」


聞いてみると、久々に聞く子供の元気な声!


「あそこーっ!」


あまりの元気のよさに、車中の空気は一気にほころんだ。



子供は・・・いい。



公民館には自衛隊車が多く止まっていた。
挨拶し、物資集積先の小学校を教えてもらう。

出発しようとすると、人が大勢出てきて空を見上げている。
手に手に携帯カメラを携えて・・・

その方向を見てみると・・・


横真一文字の虹!


b0139547_17152494.jpg



(なんじゃこりゃ)


見たことの無い、不思議な虹。


(きっと良い知らせ、吉兆に違いない!)



そう思い、乗車し、目と鼻の先にある小学校へ移動した。



小学校では地方からのボランティアの方々が仕切り、
物資の仕分け作業をしていた。

背中にはー阿南市ーの文字。

徳島県からの方々だった。



昨年、やはりCARE-WAVEのワークショップをしに徳島県へ行ったが、
その開催地が阿南市だったのを思い出した。

(あんな遠くから・・・この大島でボランティアをしにきている。)


日本人の素晴らしさ・・・

日本人の他者を思うココロ・・・

日本人の派手ではないが、心のこもった行動力・・・



感動し、感激した。



物資の仕分けは予想以上に苦労した。
それでも皆で協力し、帰りのフェリーに間に合う様に無事に終えた。


お昼にコンビニオニルギンをほおばっていると、
またまた虹が出た。

今度のは太陽を丸く囲む様に・・・

まるで日輪の輪の様だった。


(大島での不思議な虹の連発!きっと素敵に復興する!)


そうは思ったのだが、誰かが・・・

「この虹って、たしかあんまよくないんだよなぁ」

(キーッ!ソンナコトイワナクテイイジャン!)


心配もあったのでtwitterで疑問をなげかけてみた。


早速返事が来る。twitterってすごい!

確かに、気象学的には天候の急な変化等の前兆の意味もある様だ。


でも・・・

『虹は神の祝福です。天から気が出ています。気仙沼の神の祝福を祈るといいです。
先程の横真一文字と並べると、「旦」になります。旦の意味を調べてみるといいです。』

という返事もいただいた。


旦の意味は・・・夜明け・はじまり・誕生だった。


(俺はこれを信じよう。)



仕分け中、一人の女性が僕らの所へやってきて、そのまま離れようとしなかった。

自分でも言っていたが、彼女は精神的な病いにかかっている様だった。

何かというと絡んでくる。
そしてケラケラと屈託なく笑う。

「昔、新宿でホステスしてたんだー」
「お兄さん、いっつも新宿でなにしてんのー?すけべ〜!」

と言われた。

「買い物したり、映画みたりしてるんだよ!」

って答えたのに・・・。



僕らが帰る時・・・

淋しそうに見えた。




体育館では避難生活を送っている大勢の方々が目に入った。

空気が重かった。。。

(少しでも早く、軽くなって欲しい。)

そう思った。



港へ戻り、フェリーを待つ間、少し歩いた。

ネコが・・・固まっていた。



満潮になり、港には海水が上がってきた。

地盤沈下が激しい。


フェリーに乗り、大島から離れた。

気仙沼市内も冠水が始まっていた。。。



宿泊所に戻り、夕食の前に、近所の銭湯に行く事になった。

避難生活をしている方々も利用する銭湯だった。


芋洗い状態だったが、風呂の力は偉大だ。

身もココロもスッキリする。



銭湯のとなりには大きな建物があり、その前には警察車両が2台停まっていた。

建物のガラス面は全てブルーシートで覆われている。

(えっ・・・)

入り口付近には立て看板があった。


[ 行方不明者届出所 ]


その大きな建物は、遺体安置所になっていたのだ。

いったい・・・どれ程の方々が眠っていて、見つかっていないのか・・・


東京のTVでは単に「何万人」という数字で言われるが・・・

こういう事は情報ではなく、一人一人に「思いの籠った」ものだ。



情報だけで知った気になる、恐ろしさを感じた。




宿舎に戻ると・・・


松原さん手作りの『豚汁』が待っていた!


「やったー!」


味も。温度も。そして愛情も。


美味しくいただき、明日への活力が沸いた。


「食」は本当に大事なもの。


心底実感した。




お酒好きな方々は・・・

その後、疲れを癒す為に?飲みの世界に入っていった。



前夜寝ていない僕は・・・


失礼と感じながらも・・・


お先に眠らせていただいた。。。


あっ!という間だった。




続く・・・

kairindian
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by indian_joe714 | 2011-05-10 17:29 | 復興支援 | Trackback | Comments(0)

三たび・・・【気仙沼復興支援】を終えてー出発までー

4月25日(月)


昨年のちょうど3月から4月にかけて・・・僕は映画の撮影に参加していた。

タイトル『こもれび』

オール福島県白河市・西郷村・他、数カ所でのロケだった。

郡山からは専門学校生も大勢参加・協力してくれた。

美しい風景・・・
澄んだ空気・・・
綺麗な河川・・・

『画になる』

そんな中での、大変ながらも充実した日々だった。


この組では、多くの出会いがあったのだが・・・

録音部で参加していたのは松原安穂さんだった。

その松原さんから久しぶりに電話があった。

『気仙沼の支援活動、是非協力させていただきたい。』と・・・。

実は一回目の気仙沼行きの前に、ガソリンの携行缶が中々調達出来ずにいた際、
松原さんにも相談をしており、
「協力出来る事なら何でも協力します。」と、
温かい言葉をいただいていたのだった。

一・二回目は他の方々の多大な協力のお陰様で乗り切ってこれたのだが、
松原さんはその報告ブログ等を見ていてくれたらしく、心配してくれていたのだった。


僕の自宅近所のファミレスで・・・
ランチタイムに久しぶりに再会した。

5時間程だったろうか・・・

被災地の事、支援活動の事、福島原発の事、政治の事、情報の真偽の事・・・

色々と話した。
濃い時間を過ごした。

そして最後に・・・
『役にたてる事なら何でもします。お手伝いがしたい。』
と言って下さった。


こんな風に参加の意志を示してくれる方がいる。
こんなに賛同し、協力を惜しまない方がいる。

その言葉(ココロ)に感動した。
その姿勢に感謝した。

CARE-WAVE理事長に、その存在を伝えた。


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4月28日(木)

理事長と話し、松原さんのご協力をありがたく受ける事になり、
松原さんにその旨をお伝えした。

『よろしくお願いいたします』


また・・・

GW前に終わらせなければならない事があった。
支援物資搬送車量の通行証の申請である。

この日が平日最後の日であり、車両も2台は決まったので、
武蔵野市役所の災害対策課へ向かった。

一回目の申請の際は警察署だった。
緊急車両の通行証申請だったからだ。
手続きも比較的簡素で、直ぐに発行されたのだが・・・

今回は緊急では無いので、作成しなければならない申請書が多く、
記載事項も個人情報に至るまで細部まで求められた。

念のため・・・
僕の自家用車ハリノ助と、友人のバンも使う可能性があったので同時に申請した。

2時間・・・腱鞘炎になるかと思う程の字を書き、提出した。

「手続きしますので夕方5時頃に取りにきて下さい。」

とにかく時間がかかる。

5時に行ってみると、無事に4台の申請に許可が降りた。

通行する高速道。日時。運転者。同乗者。
その全てが指定されるのだが、それでも費用の削減には必要不可欠な申請であり、
我々の様な潤沢な資金の無い集団には欠かせない、行政の支援対策なのだ。



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4月29日(金)

車両の問題、物資の量が思った以上に増えていた事・・・

毎度の事だが予定通りには事は進まない。


前述の松原さんから電話があった。


『鎌田さん(理事長)と直接話し、理事長宅の物資を自分のハイエーススーパーロングに積み込みました。』

『えっ?』・・・


二人ともやる事が早いっ!(笑)


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4月30日

前回までと同様、今回も加藤事務所さんからバンをお貸しいただく事になり、
午前中に鍵を受け取りに行く事になっていた。

松原さんの車両に積まれた物資を分けて積む為、加藤事務所さんで待ち合わせる事にした。

am10:30 加藤事務所さんで鍵を受け取り駐車場へ。

加藤車・松原車を並べ最善策を検討するが、物資量を考えるとどうにもなるとは思えない。

『んー・・・』

実は松原さんには一案あった。
今から、積み込んだ物資を気仙沼へ届けに行き、積み荷を降ろし、そのまま帰京するという強行策っ!


確かにそうすれば丸々一台の車両が空きになる訳で、残りの物資も積み込める。

しかし、その負担は計り知れない。
日帰りで気仙沼往復はどんなに急いでも14時間はかかる。
そんな危険を伴う負担を、松原さんにお願いするのは気が引ける。

それに気仙沼で物資を下ろすにはその場所の確保が必要条件。
気仙沼とのやり取りは理事長がしているので、連絡がつかなければ見切り発車は出来ない。

それでも現状の確保出来ている車両と物資量を考えると・・・


松原さんの率先した気持ちもあり、二人の間では、その強行策が最善!と言う事になった。


理事長にはお互いに連絡を入れたのだが留守電になってしまう。

『腹ごしらえをして待ちましょう。』

近所のファミレスでランチしながら連絡が着くのを願った。


この日、理事長はcare関係者とアメリカでの賛同者とで初のスカイプ会議をしていた。
それもあり午前中は連絡が着かないのは覚悟していた。

しかし、昼の12時を過ぎても連絡が着かない。
13時になっても・・・


「このままだと、たとえ出発したとしても気仙沼到着が夜になってしまう。
それでは気仙沼の方に返って迷惑をかけてしまう。出発するなら少しでも早い方が良いのだが、
このまま連絡が着かないならこの計画は断念するか・・・。
もしくは見切り発車して、理事長になんとか連絡をつけてもらおうか・・・?」


そんな話しも出始めた13時10分を回った頃、ようやく理事長と連絡が着いた。

聞けば朝のバタバタで携帯を家に忘れ、たった今帰宅したとの事。。。

事情を説明し、一刻を急ぐ旨、気仙沼の方と連絡を取って欲しい旨を伝え、返答を待った。


しかし、30分経ってもかかってこない。
業を煮やし再び電話する。


どうも、たった今から出発する事がちゃんと伝わっていなかった様だ。
もう一度正確に伝え、出発する事に決まった。

その前に、昨日今日で新たに理事長宅に届いた物資があるから、
どうせだったらそれも運んで・・・

急遽、理事長宅へ向かい、新たな段ボール10箱程と電化製品を積み込んだ。

pm14:45 出発!

気仙沼到着は21時近くになると思われたが、とにかく出発して下さった。


20時半、そろそろ気仙沼に着く頃と思い松原さんに電話してみると・・・
驚いた事に、19時半には気仙沼に到着し、物資も下ろし、お茶をいただいております。

との返答。

(いったいどれだけ飛ばしていってくれたのか・・・)

「お茶をいただいたら直ぐに帰京します。」

「本当にありがとうございました。呉々も、呉々も気をつけて帰ってきて下さい!」


もっと驚いた事は・・・

am2:00 には立川の自宅に無事に帰宅し、

『大好きなお酒を飲んでいまーっす!』と・・・

メールが返ってきた事だった。。。


なんと12時間かけずに気仙沼往復し、物資の積み降ろしをし・・・

お茶までいただいていたのであった。


恐るべし・・・松原さん。


感謝いたします・・・松原さん。


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5月1日


pm23:30 加藤事務所さんのバンを運転する山本君と待ち合わせ。

僕が長年使用してきたモノではあるが、
まだまだ現役の電子レンジとTVを先積みしに行った。

2年前からバンバン告知していた地デジ化。
今回の震災の影響で、東北地方では7月の実施は見送られた。

そのお陰で、捨てずに保管していたブラウン管TVが役に立つ。

気仙沼のどなたかが・・・

このTVで情報を得て、役にたてる事が嬉しい。

良かった!


いよいよ、明日は3回目の気仙沼復興支援へ出発だ。
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by indian_joe714 | 2011-05-09 03:01 | 復興支援 | Trackback | Comments(0)

三たび・・・届けてきます。

明日5月2日出発で、3度目の気仙沼に行ってきます。

気仙沼市には今GW中、ボランティアが多数来ている様で、
市ではボランティアの受け入れ見送りを4月27日に決定している。


それでも我々が気仙沼へ出発するのは理由がある。

一つは、うを座さんとの繋がりから、引っ越し、泥の掻き出し、大量の着物の洗濯、
40匹近い犬の散歩・・・等々の、現地での作業依頼を受けているから。

もう一つには、3月11日からもうすぐ2ヶ月・・・

避難所や避難先から、アパートや他所への引っ越しをする方が増え、
引っ越し先での生活必需品が皆無な為、その支援物資の搬送である。

「今回も、御陰様で多くの物資が集まりました。
皆様の『思い』にココロより感謝いたします。」

そして最後に、大島への物資の搬送。
市内までは届いていた物資も、大島ではまだまだとの情報を受け、
前回同様に群馬県のJAさんから、多くの生鮮野菜を届けてきます。


今回は『多くの人とボランティア活動』の予定だったが、
現地の状況は刻一刻と変化しており、
臨機応変に対応するのも、とても大切と感じている。


とにもかくにも・・・

明日、総勢26名で気仙沼市に入り、
明後日から人手を分けての活動をして来ます。


「復興への兆しの始まり」が感じられてきた前回から2週間・・・

復興への道を歩み始め、一歩でも進んでいる事を願い、
その歩みを楽しみにしつつ・・・


行ってきます。


kairindian
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by indian_joe714 | 2011-05-02 01:49 | 復興支援 | Trackback | Comments(2)

再び・・・気仙沼支援物資搬送・復興作業を終えて-詳細2-

前回より続き・・・



4月13日(水)


早朝5時45分起床。
SAで朝食を取り、歯を磨き、ガソリンを満タンに。

6時30分。無事に名古屋チームと合流し気仙沼へ向けて出発。

一関IC でバンが先頭になり通行証を提示し、
他の車両にも適用される様に頼んでみたが、あえなく却下。
(とは言っても、帰京してから必要書類を作成して申請すれば、
適用も可能との事。手間はかかってしまうけど、助かる対応。)

気仙沼のトイレ事情もハッキリわからないので、インター出口の
たった一つしかないトイレへ・・・

全員並んで、随分時間をロスしてしまった。


気仙沼には9時半過ぎに到着。

2週間前にも顔を合わせた『うを座』の面々が待っていてくれた。
いや・・・待たせてしまった。m(_ _)m


早速、2tトラック、バン、2tコンテナ、バンの物資を、
皆で協力し積み降ろし。

物資事に番号をふっていたので、非情にわかり易かった。
前回から学んだ事。

これから今日の搬送先事に物資の仕分け作業に入るのだが・・・


ここで昨夜の問題が出てきた。

蔵王PAに置き去りにされている名古屋チームの2tトラック。
この2tトラックには気仙沼ではなく、南三陸へ運ぶ物資が満載されている。

相談の結果、僕がこちらの2tトラックを運転し、名古屋の2tの荷物を積み替え、
南三陸へ向かう事に。

気仙沼の方々と会えず、物資と気持ちを直接手渡し出来ないのは心残りだったが、
それは残った皆に託す事にして・・・


名古屋チームの伊藤さん、齋藤さんは2tコンテナで、
僕の2tトラックには秋田さん、宮脇さんが同乗し、
再び東北道を、南へ80km下るため出発した。

ーーーーーーーーーーーーーーー

同乗の秋田さんはRUN FOR PEACEの代表。
走る事でファンドレイジングするという、楽しく、賢く、健康な団体!

宮脇さんは、仙台で住宅関係の仕事をされているが、休みを利用し、
今回はお手伝いでかけつけてくれた若者。

遠くは宮城県で・・・
初対面の名古屋の女性と、仙台の若者と、東京の僕が、トラックの最前部に並んで走る。


『正面から見たら面白い光景だろうなぁ・・・』

なんて思いながら走った。


道中、いろんな話しをしながら、語りながら・・・

秋田さんはかなりのスピリチャルな方で、アセンションの話し、マヤの話し、これからの世界の話し・・・
決して人に強要しない、穏やかな口調で、でも芯のしっかりとある、やさしい空気に包まれた方でした。


宮脇君は、始めこそじっと人の話しを聞く、返事のしっかりした、体育会系?な気持ちのいい男子。だった。
だが・・・やはり彼も、19歳の時、四国へ単身お遍路の旅に出ていた。
海外旅行や浮いた旅ではなく、四国へお遍路。しかも19歳で。
その話しをしてくれた。
彼の言葉には、やはりしっかりと芯の通った、そして地に足をしっかりつけてこその、
未来への希望が込められていた。


僕も随分とおしゃべりをしたようだけど・・・笑


今回の状況と場所・・・も大きく影響はしている事だろう。
それでも、こうして昨日まで知らなかった人と出会い、
様々な話しが出来る幸福、発見・・・

『これもまた、大きな運命の流れの中で、出会わせていただいているんだな。』

僕は不思議な縁に感謝し、意義深い流れに感動していた。

ーーーーーーーーーーーーーーー

途中、長者原SAで昼食を取り、蔵王PAへ到着。

高熱でグッタリと倒れ込んでいる様な2tトラックから積み替え作業。

終了後、南三陸へ向けて出発。

ナビは宮城県の宮脇君がかって出てくれたので助かった。

仙台南部道路から仙台東部道路を北上して走った。


高速の右手には・・・永遠と続く太平洋岸。


仙台空港付近から〜宮城野区・・・

荒浜・・・

仙台港・・・

多賀城市・・・

塩竈市・・・

松島市・・・

東松島市・・・

石巻市・・・

牡鹿半島・・・

女川・・・

北上川を越え・・・

志津川・・・

そして

南三陸町・・・



2〜3時間は走ったろうか・・・。

その間、およそ90km。


海岸線を走っていた訳ではない。

高速を走っていた。

それでも高速の下まで・・・

場所によっては高速を超えて左手にまで・・・


津波は来ていた。。。


高速の右手は、遥か彼方の海岸線は・・・

誰もがニュースで見ている、あの惨状。。。


『こんなところまで・・・・・・これだけの広大な大地を全て・・・・・・』


『これだけでも・・・宮城県の一部なんだ。』



青森県、岩手県、福島県、茨城県、千葉県。

この一つ一つの市が、町が、どこもあの惨状なのだ。


『500kmに及ぶ東日本の太平洋岸が、壊滅しているんだ。』



農業と漁業の日本が・・・



加えて東京電力福島第一原子力発電所の爆発。

今でも毎日放出され続けている、精製したての新鮮な放射性物質。



・・・途方に暮れる。



そんな事を感じながら・・・考えながら・・・

南三陸町に入って行った。



南三陸町を山の方から入って行ったのだが・・・

まだ海も見えない所で、すでに全てが流されている光景が飛び込んできた。




『ここもか・・・』



頭ではわかっていても、こうして見せつけられると、新たなショックが生まれる。


ショック・・・

一言でショックと言ってしまうが、[ショック]とは・・・その影響は想像以上に大きい。



壊滅している町の中、屋上にアンテナのあるコンクリート3階建ての建物が建っていた。
窓ガラスは全て割れ、津波の通過点であった事は明らかだった。


『防災庁舎の建物です。』

宮脇君が教えてくれた。

『防災庁舎ってあの・・・?』


震災後のtwitterで、僕の所へも入ってきた。
何度も何度も耳にし、その都度、涙した。


『ここだったのか・・・・・・・・・・』


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宮城県南三陸町役場、危機管理課の遠藤未希(えんどうみき)さん。24歳。
遠藤未希さんは大津波に襲われる最中、防災庁舎の中、防災無線を通して、
大津波警報を発し続けていた。アナウンスし続けた。

「大津波がきます!急いで、高台へ避難して下さい!」

大津波は防災庁舎をも襲い・・・

最後までアナウンスしていた遠藤未希さんは、未だ行方不明のまま。
今年、結婚したばかりで、9月には結婚式と披露宴を開く予定だった。。。


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あの防災庁舎のボロボロに残っていた光景は、決して忘れる事は出来ないだろう。


涙が溢れてきて...


辛い光景だった。


『未希さん!本当にありがとうございました。きっと御陰様で助かった方が沢山います。
本当に恐ろしく、さぞや怖かった事と思いますが、未希さんが最後まで精一杯頑張った事は、
遠く離れた東京の僕にさえ届いています。どうぞ・・・どうぞ、今は、ゆっくりとお休み下さい。
最後まで、本当に、ありがとうございました。』



溢れ出ようとする涙を噛み締め、心の中で合掌した。




車は南三陸町の被害地を抜け、高台へと進んだ。
ここでは電気の復旧は未だされていず、信号機も点いていない。

運転者はゆずり合いで運転している。

やがて目的地である、三浦さんのお宅に到着した。

2tの物資を皆で下ろし、三浦さん宅の倉庫に搬入した。

三浦さんとのしばしの立ち話があった。


三浦さんのお宅へはRUN FOR PEACEのお手伝いと思っていたので、
僕は少し離れた所で耳だけ傾けていた。

印象に残った三浦さんの言葉は・・・

『こうして物資を届けてもらう事は本当に感謝しているし助かっている。
しかし、もらう事に慣れてしまって、助けてもらう事に慣れてしまったら、
この町は本当に立ち上がれなくなってしまう。
こうして助けてもらいながら、何とか自分達で立ち上がり、仕事を作って行かなきゃいけない。
今はそう考えているところです。』

それを聞いて僕は、

『僕らよそ者の出来る事はたかがしれている。
放っておけないから出来る事はさせて戴きたいけど、
この町で生まれ育ち、愛着があり、思い出があり、この町を愛している人達でなければ、
本当の復興は出来ないだろう。
三浦さんの様な方が居て、協力者が居て、自らの力で立ち上がって欲しい。
その為だけに、僕は出来る事だけする。そして先が見えたら応援する。
「小さな親切大きなお世話」になる事だけは気をつける。』


とココロに刻んだ。



陽も沈み、辺りは暗くなり、肌寒くなっていた。


気仙沼へ向けての帰路についた。


気仙沼ではcareチームが待っていてくれた。
驚いた事に我々の拠点の目の前のラーメン屋さんが開店していて皆そこにいた。

温かいラーメンを食べて、大満足。美味しかったー!


被災地のお店でご飯を食べる事・・・もちろん考えた。

それでも営業しているなら、食べて、経済をまわす事に協力するのも、
大事な復興の手助けになるのでは・・・?

三浦さんの言葉もあったので・・・
ラーメン屋さんの女将さんに感謝し、応援の言葉を残し・・・

今夜の宿泊場所の駐車場へ移動した。


駐車場ではRUN FOR PEACEチームがバンの後ろを開けて、ガスコンロでお湯を沸かし、
ウィスキーのお湯割りを勧めてくれた。

さながら「オープン・バン・BAR」といったところだろうか。


身体の芯から温まり、明日の作業の鋭気を養うため・・・

今夜も寝袋にくるまった。


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4月14日(木)

車中泊にも慣れてきた。
公衆トイレもあったので・・・助かった。

朝6時半には起床し、朝の新鮮な空気を全身に吸い込んだ。
東京とは違う、宮城県の新鮮な空気・・・


「この新鮮な空気にも、放射性物質が混じってるのか・・・」

ここでも頭の中を、よぎりたくもない事がよぎる。


今は考えても仕方ない。と割り切り、持参したガスコンロに火をつける。
段ボールで周囲を囲ったが、風が強くすぐに消えてしまうが、
何度もチャレンジしているうちに・・・お湯が沸いていた。

朝のcoffee一杯。

気持ちが安らいだ。


8時半。
ボランティアセンターへ向けて出発。
先導していた車が道を間違えてくれたお陰で、
前回にお世話になった小野寺さんと会う事が出来た。

目と目で交わした会話。
固い握手。

涙が溢れそうになった。。。


3・4日前から、気仙沼市でもようやく県外ボランティアの受け入れが始まっていた。
集まっていたボランティアの人達。80名だった。

ボランティアセンターの方々もまだまだ慣れていない様だ。
何もかもが初体験。

あれだけの地震・・・津波・・・被害・・・

行き先も決まり、ネコ(1輪車)3台、スコップ8本、バケツ3個、ほうき3本、他・・・
を積み込み、2台のバンに乗り込んだ。


21歳の時の、工事現場のバイトに出発する光景に似ていた。


現場に到着。
一軒の大きなお宅だった。

95歳の男性が一人でお住まいになっている家だそうだ。
家人は無事に避難し現在は避難所生活を送っているそう。

「命が無事で良かった。」

リーダーの小野寺さん
(前述の小野寺さんとは別人。県内ボランティアの方。宮城県には小野寺姓が多いらしい)
の指揮で作業が始まる。

床下のヘドロの排出作業。
汲んでも汲んでも出てくるヘドロ。

結局一日中、部屋、庭のヘドロの掻き出しだった。


ヘドロ・・・
ひとくちにヘドロと言ってしまうが、それはありとあらゆるモノを破壊し、
飲み込んだ津波が押し寄せ、運び込んだモノ。

魚・海藻・ビニール栽培のビニール・ガラスの破片・木片・鉄片・誰かの思い出の品・食べ物・
薬品のビン・その中身・土・砂・洋服の切れ端・海水・油・・・・・

そんなヘドロの中から・・・


生きたカニが出てきた。


横歩きで出てきた。


ヘドロの中で生きていた!


生物の生命力に驚き・・・感動した。


カニでも嬉しかった。


自分が蟹座だからかもしれないけど、嬉しかった。



ヘドロを掻き出し、袋に積め、50キロ程に膨れ上がった袋を運び、捨てる。
ヘドロを掻き出し、ネコに乗せ、運び、捨てる。


何度繰り返し、往復しただろう。


午後3時。

今日の作業の終了時間。


確かに、ヘドロを掻き出した分だけ綺麗になった。

しかし、このお宅だけでもまだまだ何日かやらなければならない。

隣のお宅はまだ手つかず。その隣りのお宅も、またそのお隣の・・・


見渡せば、「何年かかるんだ・・・」

と言いたくなる程、無数の家・・・

トラックが2台突き出ている家。電柱がのしかかっている家。車が乗っかっている家。


まだまだ何もだ・・・


果てしなく感じた。


とにかく、人出だ。人出が足りない。

関東より西の人間全員がやってきて、全員でやってもまだまだだ。

と思える程の被害。


重機での作業には限界がある。
最終的には手作業でしか成し得ない。


人出が足りない。


東京に帰ったら、声をかけよう。
次は人出だ。


そして、今回の気仙沼支援活動は終わった。




帰路・・・

一関IC手前の岩手県の高台の温泉へ立ち寄り、へドロまみれの身体を洗った。
気持ち良かった。スッキリした。これで東京まで気持ちを入れ替えて運転出来る!

被災者の方々の中には、簡単にお風呂にも入れない方々が大勢いる。
入りたい時にお風呂に入れて、寝たい所で寝れて、食べたいものを食べれる幸せ。

この当たり前の幸福を、1日でも早く、1人でも多くの人が実感出来る様に。

今、やれる事をやる。

改めてそう思い・・・

帰京への道に。


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4月15日(金)


途中、栃木県の上河内SAで最後の車中仮眠。

朝5時に起床。

無事に帰京し、返却すべきものを返却し、部屋に帰り・・・


ホッとした。



被災地の方々にも、早く・・・


ホッとして欲しい。



『次は、人出だ。。。』



kairindian
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by indian_joe714 | 2011-04-25 03:34 | 復興支援 | Trackback | Comments(0)

再び・・・気仙沼支援物資搬送・復興作業を終えて-詳細1-

4月10日(日曜)

本当に嬉しい事に、多くの方々の積極的なご協力のお陰様で、
この日までにも随分支援物資が届いていました。

同じ声の事務所〖アクセント〗の村田博美さん。
前回は、仕事の現場が偶然一緒になり、支援金のご提供をいただいたのですが、
今回は物資の提供をして下さると言う事で、愛車のハリノ助で受け取りに伺いました。

予定時間より少し前に到着し連絡し、車から降りて待っていると、
ご自宅とは違う方向から・・・

『成田さーん!』

声のする方を見てみると・・・

ヘルメットを被って颯爽とやってくる自転車っ!

麺つゆを用意して下さっていたのだが、麺つゆには麺類が、そして麺類にはボールやお玉・・・
と、必要なモノが増えていったらしく、朝から購入してきて下さったのでした。

こういう「気持ち」。。。


w(^o^)w


軽く立ち話をして、またの再会を約束し・・・

支援物資集積所をかって出てくれている平木寛子邸へと向かいました。

平木邸には、今回同行するCARE-WAVEの沓沢周一郎さん、松村達冬さん。
そして道中の高速情報を東京からナビしてくれる前田織里奈さんも来てくれました。

物資の量を確認し、仕分け方法、運行予定等を話合い、解散。

その後芝居を観劇し、夜にはもう一つの集積所。

田川光希さん・石原満里奈さん宅へ

二人はCARE-WAVE理事長の鎌田真由美さんの生徒で、
今回の協力に手を上げ、現地同行もするという。

二人で同居しているので部屋数もあり、和室には物資が山積みされていました。

果たしてバンだけに積み込めるか?

焦る程の物資の量に、多くの方々のご協力の「思い」を感じたのでした。


また、CAREーWAVEスタッフの伊藤由佳さんは、この日も大好きなミュージカルの観劇。
その後わざわざ遠いにも関わらず、カラの携行缶70L分を、
我が家の隣にあるガススタまで運んできてくれていた。

ガススタには伝えてあったので、快く引き受けて下さった様。


感謝。

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4月11日(月曜)


前回に引き続き、加藤事務所さんがバンを提供下さった。
高速道路が復旧し一般車が通行可能になった事で、緊急車両通行証の発行はもうされていない。
今回の気仙沼行きでは唯一、このバンだけが通行証を持っている。
貴重な車両。

高円寺駅から徒歩15分。
加藤事務所さんから鍵を受け取り、お借りしたバンに乗り込んだ。

まずは我が自宅へ。

ハリノ助(我が愛車)には、物資ではないが欠かす事の出来ないモノが積まれていた。
我々支援隊の食料、水、数人分の寝袋、ガムテープ、ひも、台車、等々・・・

これらをバンに積み替え、ガススタへ。

昨日、CAREスタッフの由佳さんが届けてくれた携行缶に
ガソリン満タン70L。トラック用の軽油20L。

そして、これまた前回同様、
同じ声の事務所〖アクセント〗に所属する風間勇刀さんが、
台車と携行缶にガソリン満タン20Lを提供してくれた。

本当に有り難い。



夜には・・・


4月5日のブログにも書かせてもらったが、気仙沼出身の大学生。
今は同郷の4人でバンドーthe Revaizーを組んでいる志田淳君の・・・

復興支援ライブに顔を出す事が出来た。


故郷、宮城県気仙沼市。
2011年3月11日。未曾有の大地震、巨大津波に襲われ、
津波により破壊された重油タンクの油が流出し火災・・・

燃え盛る火は、津波に乗り、街全体を炎で包み込んだ。


その気仙沼で生まれ、育ち、全ての記憶が気仙沼の土地と共にあった淳が・・・仲間達が・・・
惨状を目の当たりにし、俺には想像もできないココロの空虚感を感じたことだろう。

その4人が、こうして震災からちょうど1ヶ月後に東京新宿で復興支援ライブをやった。

素晴らしいことだ!

20歳も年下の彼等は、これから先、この大震災が故郷に残した爪痕と共に生きて行く。

故郷には、彼等よりも苦しい状況にいる人々、仲間達が大勢いることだろう。


それでも、全てオリジナル曲の中、MCで淳は言った。


『2011年3月11日を超えて生きている人達には意味がある。
生きている僕らがこれからを創って行く。』


この4人の思いを、俺なりに胸に抱き・・・

『明日、気仙沼に向かう。』と心に誓ったのだった。

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4月12日(火)

出発の日。

俺の運転するバンは田川・石原邸へ
積み込み作業終了後、平木寛子邸へ・・・

の前に・・・

劇団青年座研究所の後輩で女優として活躍している
もたい陽子さんが、物資を提供したいと申し出てくれていたので、
途中立ち寄り、お預かりしました。

実はもたいさん、ツイッターで情報を拡げてくれていたらしく、
もたいさん経由での物資の宅急便も届いていました。

こうして一人一人の方の思いが、やがてトラック満載になり、
文字通り、多くの方々の今日を生きる糧となる。。。

ありがとう。

この言葉にまで本当に感謝する。



さて、いよいよ平木邸へ・・・

の前に・・・

実はこの日も朝から大きな余震があり電車が止まってしまった関係で、
田川・石原邸の集合に来れなかった同行者が1名。
CARE-WAVE理事長鎌田さんの生徒、高井渚紗さん。

彼女を中野駅でピックアップして、いよいよ平木邸へ・・・
ようやく平木邸に到着し、事務局の千恵子さんから経費(皆様からの支援金)を預かり、
平木邸での物資の積み込みも完了し・・・


出発!


セレナと2tトラックは横浜市立錦台中学校へ向かっていた。
前回、大量の物資をご協力いただいた市ケ尾中学校の平川校長のお声掛けで、
今回も別の中学校が物資の支援をして下さったのでした。
全校生徒560名。

東京で道中の後方支援をしてくれる織里奈さん、
CAREーWAVEには第一回から協力してくれている内藤歩さんも
横浜が近いとのことで、積み込みの手伝いにかけつけてくれた。

3台は、東北自動車道、蓮田SAで落ち合うことになっていた。

バンは予定よりも1時間程早く到着していたので、早めの食事休憩。
程なく、セレナ・2tトラックも到着し、今回の気仙沼支援隊が集合した。


〖今回のCARE-WAVE支援隊メンバー〗

バン:成田浬(運転)・澁谷祐介・高井渚紗
2tトラック:松村曜生(運転)・沓沢周一郎
セレナ:宇田川伸一(運転)・村松直浩・二宮綾音・石原満里奈・田川光希・鎌田理事長

総勢11名・・・


あれ?


一人多い・・・?


なんと・・・錦台中学校に積み込みのお手伝いに来てくれていた内藤歩さんがいる!

『鎌田さんに連れて来られました・・・笑』

また鎌田さんがやってくれました。


理事長の思いつきと少々強引な判断には慣れてきましたが、
それも上手く行けばとても効果的なこともあり・・・
(そうでない事もあるが・・・汗)

ま、高速のSAで置いて行く訳にも行かず、来てしまったものは仕方がない。
(幸い、寝袋や食料等、一人位増えても構わない準備は・・・僕がしていた・・・(- -;)v

最後までとことん付き合ってもらおう。
と言う事でセレナに同乗してもらい、総勢12名。


蓮田SAを出発したのでした。

次に落ち合うのは、今夜の仮眠場所である宮城県の長者原SA。
それまでは各々で休憩、給油、食事を取ることにした。



予定よりかなり早く、我々バンは22時には無事に長者原SAに到着した。

残りの2台もだが、

実は今回の支援隊には名古屋からも賛同者がおられ、
長者原SAで落ち合うことになっていた。

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2tコンテナ車・ワゴン車・2tロング車の3台で向かっていたのは、
RUN FOR PEACEの秋田稲美さん・伊藤幸二さん・斎藤篤さん・池崎さん・羽原さん・後藤さん
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CAREの2台も無事に到着し、夕食を済ませ、名古屋チームを待っていた。
東京で後方支援してくれている織里奈さんからも、順調に向かっている旨の
報告を受けていた。のだが・・・

織里奈さんから落ち着いた声で電話がきた。

『緊急のバッドニュースです。名古屋チームの2tトラックが動かなくなり、
現在、蔵王PAにて停車中。現地で連絡取り合って下さい。』

鎌田さんが先方と連絡を取り、僕は織里奈さんと連絡を取りながら、
レッカー、レンタカー、こちらのトラックでピストン運搬・・・
等々、対応策を練ってはみたものの、時間は深夜の零時を回っている。

そうでなくても全員、長距離移動で疲労困憊。

今夜の所はまず、それぞれ仮眠を取り、
予定通り明日の朝6時30分に、長者原SAにて集合。

蔵王PAに置き去りにされた2tトラックに関しては、明日考えよう。

と言う事になった。


何事も、始めてみると何かが起きる。
順風満帆なんて、そうそうは無い。

それでも、必ず上手くいく。

そういう思いだけはあった。


頭の中には色々なことが駆け巡ったが、
いつの間にか・・・
バンの助手席で寝袋の中・・・

眠りについていた。



kairindian
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by indian_joe714 | 2011-04-21 15:44 | 復興支援 | Trackback | Comments(0)

再び・・・気仙沼支援物資搬送・復興作業を終えて

3月24日〜26日の支援物資搬送に引き続き、
4月12日〜15日まで、再び宮城県の気仙沼へ行ってきました。


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あの日から・・・

ちょうど一ヶ月が経ちました。


『地球が揺れたほんの数分間。

その復興は数十年にも及ぶかもしれない。。。

そして受けた心の傷は

たとえ癒えたとしても消える事は無い。。。』


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【率直な印象】

震災から2週間後だった前回は、自身にとっても初めての経験でした。
まだ寒く、夜には零下の冷え込み。頻発する余震。
気仙沼の町にはガソリン待ちの渋滞が長蛇の列を成しており、
燃料不足から走行中の車はほとんど見られず、
唯一開いていたスーパーにも長蛇の列。

まだ・・・『生活』という言葉すら存在しない・・・

それよりも・・・『生きる』『命をつなぐ』という印象が強かった。



電力の復旧もされていず、信号機も消えたまま。

辛うじて自衛隊の開いてくれた道はあるが、道路脇は震災直後のまま・・・

潰れた車、ひっくり返った車、重なった車、泥だらけの店舗、ガラスの無い店舗、
山積みの泥、瓦礫・・・さらに進むとそこは・・・




全てが潰れ、流され、グシャグシャになった広大な大地・・・


「なんにもない。。。」












宙の一点を見つめたままの人・・・

『ゼロ』で歩いてる人・・・

希望の無い、絶望の淵を彷徨っている人・・・











大地震・巨大津波・余震・原発・・・

一言で言い表す事など到底不可能だが・・・


《一瞬にして全てを飲み込んでしまう現実を体験してしまったショック。》
《まだ何か起きそうな不安感。》


『この現実を、信じられない。・・・思いで、でも現実で・・・
受け入れざるを得なくて・・・悲しくて、不安で・・・信じられなくて・・・』


そんな風景ばかりが目について、

印象は・・・本当にきつかった。


このまま放ってはおけない!
とにかく、縁あって生き残った人には生きて欲しい!


まず生きて・・・






希望が沸いたら・・・


そこに向かって、立ち上がり・・・一歩を踏み出して欲しい。



これが2週間前の気仙沼での印象でした。






2週間経って・・・


今回の気仙沼に着いて先ず感じたのは、走行中の地元の車が増えた事。
そしてガソリンスタンドでの渋滞が無くなっていた事。

開いているスーパーは変わらず一軒のみでしたが、
そのスーパーへの買い物に車で来れている様子。また、買い物の列が無かった事。

つまり、
「買わなければならないものが最低限でも揃ってきているのでは・・・?」


少し希望を感じられた光景でした。

それに、前回は点いていなかった信号も点いていました。
(未だ電気の復旧がされていず、信号機が点いていない所も沢山ありますが)

国道沿いではほんの数店舗ではありましたが、営業を再開しているお店もありました。

再開に向けて準備しているであろう光景も見えました。


『やった!この調子で頑張って!』


ほんの2週間でも、これだけ変われる。

外からやってきている自身だから感じる事なのかもしれないけれど・・・

まだまだ全然ではあるけれど・・・確実に、着実に、復興へ向かっている!



マクロ的にはそんな印象を受けた、今回の気仙沼でした。


ミクロ的には・・・もちろん、まだまだ・・・まだまだですが。。。




今回の気仙沼行きから帰京して、率直な印象でした。

詳細は追ってアップいたします。



kairindian
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by indian_joe714 | 2011-04-18 11:39 | 復興支援 | Trackback | Comments(0)

届けてきます。vol.2

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明日、二回目の


【支援物資搬送 for 気仙沼】


に行ってきます。


今回も、自宅避難されているが、物資の届いていない方々
に向けての搬送です。

前回の、横浜市立市が尾中学校、と2校の小学校に引き続き、
横浜市立錦台中学校の協力もあり、全校生徒560名からの
物資提供も搬送します。

米・調味料・レトルト・缶詰に物資を絞り、
なるべく多くの方に行き渡る様、
気仙沼市内の4地区で、青空提供にする予定です。


昨日の福島県を震源地にした余震も頻発しており、

道路状況、燃料、もまだまだ安定していません。


本当に正しい行動なのか…

他に方法はないのか…


模索しながらではありますが、何はともあれ、

まずは事故に気をつけて、

一人でも多くの方に物資が届けられる様、

行ってきます。



この行動が、被災されている方々の力になり、

復興への活力に繋がっていきます様に…


また、報告いたします。


kairindian
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by indian_joe714 | 2011-04-12 02:04 | 復興支援 | Trackback | Comments(0)